移民のふるさと巡り=赤道の4都市へ(1)=アマパー州入植昨年50周年=〃90人の客〃は初めて
10月1日(金)
小泉純一郎総理が文協記念講堂で講演、感涙して三十秒あまりも言葉に詰まった九月十五日(水)の午後、ブラジル日本都道府県人会連合会(中沢宏一会長)主催の、アマゾン四都市を訪ねる「第二十回ふるさと巡り」の第一陣が出発した。同地の移住七十五周年を共に祝うために、赤道直下のマカパー、アマゾン最大の日系集団地ベレン、大豆に沸き立つサンタレーン、進出企業と移住者の貢献著しいマナウスなどを八日間に渡って訪問した。時として三十八度を超える灼熱の地を、平均年齢七十歳以上の九十一人は、熱帯雨林に負けない熱気をはらんだまま各地を訪ね続けた。
その大河の河口を越えるだけで、飛行機で一時間近くかかった。東京・名古屋間に匹敵する約三百三十キロの河口を持つのは、世界広しといえとアマゾンぐらいだ。河口に浮かぶマラジョー島は、実に九州に匹敵する面積というから、スケール感がまったく日本とは異なる。
十五日午後五時四十五分、グアルーリョス空港を出発したヴァリグ2250便はリオ、ベレンを経由して、深夜十二時ちょうどに赤道直下のマカパー市へ到着した。人口二十八万三千人、アマパー州都だ。
タラップを降りると、いきなりむわっとした湿潤な熱気の洗礼を受ける。真夜中にもかかわらず、肌がベタベタだ。二台のバスに分かれて、市内のエコロジーホテルECOTELへ。午前一時過ぎにチェックインし、シャワーを浴びて二時過ぎに就寝。
昨晩遅かったにも関わらず、翌朝七時半には大半がカフェで顔をそろえた。
朝一番の挨拶代わりか、「アマゾンまで来れたんだから、もう死んでもいいぞ!」と、半分冗談にもならないことを、グァタパラ移住地から参加した上原久司さん(78、長野県出身)は元気良く言い放つ。
午前九時、サンパウロなら昼過ぎに降り注ぐような強さの太陽光線が、すでに満ち満ちている。要は、暑い――。
第二陣は、十六日早朝にTAM機でサンパウロ市を出発し、ブラジリア経由で午後にマカパーに到着する。約九十人もが参加したため、飛行機やバス、船なども二~三台に分乗しないと全員が乗り切れない。そのため、胸に赤いカードをつるした「赤組」と、同様の「青組」に分かれての行動となった。記者は「青組」に振り分けられた。
朝食後、ミニ動物園や原生林を一時間かけてまわっているうちに、アマパー日伯協会の鈴木敬三会長(71、北海道出身)が現れる。ほとんど日本人がいない仏領ギアナで、二十五年間も農業をやった珍しい経験のある人だ。
「九十人もの日本人が来るのは、初めてですよ」と鈴木会長は驚く。
昨年、アマパー州への入植五十周年をささやかに祝った。「レストランで祝賀晩餐会を企画したら、二百二十人の申し込みがあり、百七十人もが実際に参加しました。こんなに来るなら、もっと偉い人も呼んで盛大にやってもよかったなんて、後からみんなで笑いました」という。
同協会の会員は百家族、三百人いるが日本国籍者は二十九人のみ。家長クラスはほとんど亡くなった。会員の大半は、二~三世であり、当然、日本語を使う機会も限られている。ただし、「南から来る若い日系人が毎月のように増えてますよ」という。弁護士、医師、会社員が大半だそう。
アマパー入植史には、政府の無責任さと、それによる苦難の数々が刻み込まれている――。
この赤道直下の州に第一陣が入ったのは一九五三年九月で、二十四家族がマタピー植民地にゴム栽培者として、五家族がマカパー郊外のファゼンジーニャに野菜栽培者として入った。「当時のマカパーは人口三万人、今の十分の一でした」と鈴木会長はいう。
第二陣は翌五四年九月、十六家族がマタピーに、五家族がファゼンジーニャに入った。最後の第三陣は五七年十月にマサゴン植民地に七家族入植した。計五十七家族が入ったが、現在まで営農を続けるものはごくわずかだ。 つづく
(深沢正雪記者)