移民のふるさと巡り=赤道の4都市へ(2)=営農に全く不向きだった=マタピー植民地入植者ほとんど他州へ

10月2日(土)

 「雪が一メートル、四ヵ月間も積もっている北海道より、こちらの暑さのほうが慣れますよ」。
 赤道直下の日本人会、アマパー日伯協会の鈴木敬三会長(71、北海道)の話し振りは、実に温厚でユーモラスだが、移住地の歴史を語る時には無念さが滲み出ている。
 「日本側とブラジル政府側がゴム栽培地として選んだマタピー植民地は鉱物資源は豊富だが、川水の便が悪く、潅水など不可能でした。加えて、土壌といえば砂地…。濃度の高い酸性土壌でした。農薬、化学肥料もなかったあの時代、ゴム栽培どころか、すべての農作物にも不向きで、生活は貧窮するばかりの時代でした」。
 最初の二~三年間は、みながむしゃらに働いたが、そのような事実が分かるにつれ、櫛の歯が抜けるように、ほとんどの入植者は他州へ移動した。マタピー移住地の第一陣で続けているのは四家族のみ、第二陣は全滅だった。ファゼンジーニャに野菜作りで入植した人たちは順調にいった。それでも、州内で農業をする日系人は九家族のみだ。
 「南伯(サンパウロも含めた意味で)へは行ったことありません。でも、もしかしたら、私も今ごろサンパウロにいたかも」という。
 実は一九五七年、他の二家族と共に、鈴木さんはサンパウロへ移転する準備をすすめていた。ところが鈴木さんだけマラリアに罹ってしまい、一週間寝込んでいたために行けなかった。「もし、あの時にマラリアに罹っていなかったら、今ごろサンパウロに住んでいましたよ」。
 歴史に「もし」はない。でも、ちょっと不思議な感じがする。
 デカセギはここにも影を落としていた。「一九八〇年代の終り頃から、働き盛りの人たちが日本へデカセギに行き、アマパーの日系組織の活動が十年以上途絶えてしまいました」。
 七九年頃に建てられたという会館は、十年ほど前から宗教団体に貸し出され、そのお金を運営資金にしている。会活動の全盛期は、家長クラスが健在だった六〇~七〇年代だったよう。「最初は会の名前もなかったけど、家長たちが毎月集まっていました」。
 鈴木会長は、経済的・社会的に安定している現在の二世層が新しい勢力を形成してくれるのでは、と期待している。
 「アマパーの日伯協会活動を復活させ、新しい世代中心に、かつて以上の組織を立ち上げるべく力を注いでいます」。赤道の太陽に負けない、日本人の熱い心意気を鈴木会長は述べた。
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 「外にいたら、うだっちゃうよ!」と言いながら、ある参加者が冷房ギンギンのバスへ乗り込んできた。昼食後、一行は市内観光へ。最大の観光地、赤道ゼロ地点には、地表部に幅二十センチほどの線と、大きな塔が立っている。
 「昼と夜がちょうど同じ時間になる秋分の日、春分の日には、この線の真上を太陽が通過します。すぐ隣にある市営サッカー場のセンターラインは赤道上にありますから、グランドの半分は北半球、残りは南半球になります。また、この塔の北側には、北半球唯一のサンボードロモ(サンバ行進会場)があります」などとガイドが説明。一同なるほど、なるほどと頷き、われ先に赤道線にまたがって記念撮影を始める。
 塔下のセンターで、絵葉書のような赤道証明書をもらい、十五分ほど買い物。クプアスー、アサイー、タペレバーなど七種類ほども見慣れないフルーツのアイスが並んでいるのを見て、「熱帯に来たな」と実感。
 赤道ゼロ地点を後に、赤道上を走る赤道大通りをまっすぐ行くと、ようやく茶緑色のアマゾン川が見えてきた。  つづく
   (深沢正雪記者)

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