パラナ州でコチア青年の貢献を見る=サンパウロ組、仲間たちと交流=連載(3)=カストロで頑張りの声、声=苦労話、今は〃ロマン〃

4月12日(火)

 四月一日午前六時、第二回コチア青年交流団は、サンパウロ市東洋街にあるリベルダーデ広場を出発した。途中、ピラル・ド・スールとサンミゲル・アルカンジョを経由して、団員十五名(団長・高橋一水コチア青年連絡協議会会長)を乗せた貸切りバスは、パラナ州カストロに向けて高速道路を走った。
 数多いコチア青年の中でブラジル国内を一番廻ったと自負している蛸井喜作(山形県)が「道路が良くなったねえ」と感心すれば、日本最北端出身のコチア青年を自認する神取忠は「一九五八年~六〇年頃はね、新参者のコチア青年たちは、パトロンの指示で、アルカンジョからカストロまでの約三百キロを丸一日かけて、トラクターを運転して運んだものだよ。道路は土だった。親切なパトロンは、途中のシュラスカリアで食べていけ、とカネを渡してくれた。そうでないパトロンは弁当をトラクターに乗せた。量も少なかったね。このような苦労もあったけど、今では〃ロマン〃を感じるね。何と言っても、戦前の移民と比べたら、われわれは恵まれていたよ」と述懐していた。
 この日の夜は、カストロ市内の中心部でスーパーマーケットと食堂を経営している橋口明人(佐賀県)の食堂Estacao Grillで懇親会が開かれ、五十名が出席するほどの盛会だった。
 司会を務めた小池清一郎(群馬県)が冒頭に「カストロに移住した仲間の二十七名が志半ばで土に還ったが、残された妻たちが頑張り、後継者も育っている。今晩は後を継いでいる若者たちもママイと一緒に参加していますので、活発に交流して下さい」と説明して懇親会が始まった。
 特に、女性が二十名も参加する活発な交流会となった。第一次一回の小森敏夫(富山県)は「間もなく古希を迎えるが、元気でやってくることができた。八十まで生きたいね」と元気印を発揮していた。二次二十一回の今川勝利(佐賀県)は「今でも仲間たちから、お前はカスーロ(一番下)だ、と冷やかされているが、それに甘んじて頑張っている」と爆笑を誘っていた。
 梨や柿やスモモなどの果樹を栽培している高野三郎(一次十一回)は、中国種のヤーリ(鴨梨)全量をサンパウロ市場に出荷している。トラックで週二回運送しているが「あまり売れない」と謙遜していた。実際は、サンパウロの東洋街でも好評を得ている果物の一つだ。昨年暮れの地震で大被害を受けた新潟県長岡市の出身だ。
 柿を中心に営んでいるという馬場邦雄(北海道)は、市役所と交渉して六年前から学校給食に果物を提供して定着し、今では需要が伸びているという。柿は六月~七月の冬場に児童生徒の風邪防止に役立っている。学校給食を通して果物を子供たちの健康に役立てる、という発想がすばらしい。「支払いが保証されているので安心」でもあるそうだ。
 夫に先立たれている佐々木きい子さん(岩手県)は長男ひろし君が、三好はぎえさん(広島県)は長男・日出輝君が、それぞれ後継者となって頑張っている。体いっぱいに安堵感をたたえる女性たちも輝いて見えた。
 九月十七日~十八日にサンパウロ郊外のサン・ロッケ市にある国士舘スポーツセンターで予定されている、コチア青年移住五十周年記念行事に参加を呼びかけた連絡協議会の高橋一水会長は「仲間たちの反応に大きな手応えを感じた」と一日の疲れが吹き飛んだようだ。つづく(文中、一部敬称略)

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