平野植民地90周年祝う=苦闘の開拓時代偲び=6百人が記念祭に出席

7月5日(火)

 先人の努力を忘れず、百周年を迎えたい―。第一平野農事文化協会の山下従良会長は、式典に出席した約六百人を前に意気込んだ。民間人による植民地としては、最古の部類に入る第一平野植民地は三日、入植九〇周年記念祭を多くの出席者を迎え、盛大に執り行った。サンパウロやノロエステの日系団体代表者、リンスやカフェランジャなどの市関係者も駆けつけ、共に喜びの日を分かち合った。
 マラリアで八十余人が犠牲となり、霜や蝗の害で凶作に見舞われるなど、苦闘の開拓時代の代名詞ともなっている平野植民地。通訳五人男の一人、平野運平が新天地を求め、開拓に乗り出したのが、九〇年前の一九一五年八月一日だった。
 千六百二十アルケールの土地内に現在、サトウキビ栽培や牧畜で生計を立てる十二家族が住む。世代交代も進み、往時を知る人はほとんどいない。
 「植民地の基礎を作ってくれた開拓者に敬意を表したい」と語る山下会長。このたび、第一平野植民地は、入植から九十年という大きな区切りを迎えた。
 式典に先立ち、出席者は車に分乗、会場から約十キロ離れた日本人共同墓地を訪れた。牧草地帯に引かれたテーラロッシャの急勾配の道が一筋の線となって続く。
 「何故こんな所に、と思うかも知れませんが、ここは植民地の中心だったんですよ」。三百以上の家族がいたという三十年代を振り返る山下会長。
 墓地の中心に一際大きく目立つ「平野運平墓」と日本語で書かれた墓碑銘が照りつける日差しに輝く。  その背後に、平野植民地の発展に尽くした山下永一氏の墓が死後も平野氏を支える形で佇む。
 渡辺博文総長の導師による読経が続く。
 移住地で生まれ、二十歳まで過ごした打山一次さん(84・サンパウロ市在住)は、「青年団でこの墓の掃除に来てた」と当時を懐かしんだ。
 古戦場だ―。今回、六十年ぶりに里帰りした阿部牛太郎さん(80・マウア市在住)は、平野植民地に車がさしかかったとき、大きな声を上げた。マラリアの温床だったドラード川を眺め、「こんな小さい川だったかな」と首を傾げる。一九三五年、十歳の時で入植。
 「剣道なんかもしてね。楽しかったなあ」。半世紀を超えて再訪した思い出の地で、少年時代に思いをはせた。「戻って来れたのは幸い。感無量」と顔をほころばせた。
 碑文が刻まれた鎮魂碑と平野運平の銅像前で読経が行われ、平野光明寺本堂で先亡者追悼法要が執り行われた。地元の子供たちによる献花、献灯もあった。
 山下会長は平野運平氏の経歴やマラリアに襲われた植民地の初期の歴史を振り返り、「家を覗くと赤ちゃんが一人残されているような家族もあった」と声を詰まらせつつも、「皆さまの協力で百周年を迎えたい」と表情を引き締めた。
 渡辺導師は「亡くなった人を忘れることなく、共に生きることで、み仏と心を通わすことができる」と法話を行った。
 法要後、行われた式典では、来賓の在サンパウロ総領事館の沖田豊穂領事、ブラジル日本文化協会の上原幸啓会長、平野氏の郷里を代表して静岡県人会の鈴木静馬会長、ノロエステ連合日伯文化協会の白石一資会長らがあいさつ。それぞれが祝いの言葉を述べ、志し半ばに逝った開拓者を悼んだ。
 続いて、植民地を長年支えた功労者五人、敬老者十一人に今回表彰が行われ、惜しみない拍手が送られた。
 式典の最後に「平野植民歌」「移民の歌」を皆で合唱、会場は振舞われた食事に、舌鼓を打つ参加者の喜びの声に包まれていた。
「新聞なんかで読んで、一度来てみたいと思っていた」という榛葉五郎さん(85・サンパウロ市在住)は、平野氏の遠縁に当たる。今回初めて平野植民地を訪れた。
 「一九二九年に日本を出るときから、(平野氏のことは)聞いていた。今回来れてよかった」と満足そうに話していた。
 功労、敬老者被表彰者は以下の通り。
▼功労者=平川英雄、槙野勲、山下従良、森部長、矢野正勝▼敬老者=川市豊子、重松イツヨ、平川英雄、矢野民子、高山勝子、槙野勲、藤井全四郎、平川ヨシエ、槙野和子、鈴木栄子、鈴木和寿。