戦中の恩人キンコさん=語り継がれる親日郡長=地元関係者=「歴史伝えたい」=ミラカツー市

2005年7月30日(土)

 〃キンコさん〃は日本人の恩人――。当時ミラカツーに在住していた日本人にとって、忘れられない非日系郡長がいる。戦時中、ブラジル政府に枢軸国側と見なされたブラジル日系社会。在外公館、日本語学校の閉鎖、三人以上での集会の禁止、資産凍結など弾圧の憂き目に合った。四三年七月、海岸地帯に在住する日本人の退去命令―二十四時間以内―が出された。サントスの悲劇が今なお語り継がれるなか、ミラカツー市(旧プラニーニャ郡)を中心に在留する日本人は強制退去を免れている。その陰に、ある親日派郡長、ジョアキン・ジアス・フェレイラ氏の助力があった。同地を訪れ、当時を知る長田栄治氏(87・沖縄県名護市出身)に話を聞いた。

大統領とも親交
 サンパウロ市を貫く国道百十六号を南西に約二時間。人口約二万人のミラカツー市はある。一九一〇年代から始まった南西地帯開拓移民が入植。バナナ栽培を中心に発展、最盛期にはその八割の生産者を日本人が占めた。
 町の中央にある市長舎正面に立つ胸像。日本移民たちから、〃キンコさん〃と呼ばれ、親しまれたジョアキン・ジアス・フェレイラ氏である。戦時中はプライーニャ郡長、市制後初の市長も務めている。
 フェレイラ氏の甥にあたり、現在も同市に住むパウロ・ララノア氏はその人柄を「誰とも分け隔てなく付き合う人だった。とても純粋な人でしたよ」と語る。 ジャニオ・クアドロス元大統領も若い頃、よく家に立ち寄っていたという。ララノア氏は市庁舎に隣接する博物館の館長でもある。
 この二十五平米ほどの小さな博物館は一九二九年から七六年まで監獄として使われていた。
 「私もここに入れられたことがあるんですよ」。当時を振りかえる長田氏の記憶時計は「あの頃」に逆回転を始めた。

父代わりも率先
 一九三五年、十七歳の時、来伯。米やバナナ栽培に従事した。三七年に創立されたプライーニャ日本人会の初代会長は父、林吉氏。ミラカツー最初の小学校も主体となって建設。ジュキアからペドロ・トレードまでのプライーニャ郡内約六百家族が会員となった。
 「キンコさんの家によくカフェを飲みにいっていた」という長田さん。日本人会の青年会長を務めていたこともあり、市と日系社会との調整役を担っていた。
 「日本人だけって訳じゃないけど、よくしてくれた。困ってる移民に塩や干し肉、石油などをくれることもよくあったしね」。長田さんによれば、「約百人の日本人のパドリーニョだった」というからその信頼度が偲ばれる。
 戦時中、ジュキア沿線にあった日本語学校は十校以上。当局の締め付けも厳しくなったころ、長田さんは密かに授業を続けていた日本語学校の教師たちに「授業をしばらく控えるよう」伝言するため、汽車に揺られた。フェレイラ郡長からの指示だった。
 全ての学校に連絡し、ジュキアに一晩泊まってミラカツーに戻った長田さんは警察の尋問を受けた。連れていかれた監獄には、昨日会った教師たち十二人がすでに収監されていた。
 長田さんは、フェレイラ氏の命令で即、釈放されているが、五人の教師はサンパウロまで拘引。そのうちの一人だった田中ヌイさんの長男、田中誌(しるし)さんは当時を語る。
 「そりゃ、心配しましたよ。すぐサンパウロまで面会に行きました」。すでに父親はなく、四人いた弟と妹の父親役ともなっていた。
 「三回会いにいったけど、一度も話すことはできなかった」。約一週間後、ヌイさんは釈放されたという。 

邦人退去を阻止
 四三年七月、海岸地方に住む枢軸国人に退去命令が出る。サントス強制退去も新聞に報道される。
 フェレイラ氏は「絶対に出て行かなくてもいいようにするから、普段通り仕事をするよう」と日本人会に通達。州政府と交渉するため、出聖した。
 「(待っている間)戦々恐々だったよ。日本人会の書類なども箱に入れ、穴に埋めた。みんな、連れて行けない鶏や豚を食べていたね」と長田さんはその際の日本人社会の動揺を語る。 この地を去らなければいけないかも―、不安が漂うなか、食卓だけは豪華だった。
 やがて、フェレイラ氏は「プライーニャ郡内の日本人は退去する必要なし」との返事を持って帰る。
 「警察なんかにも意地悪するのがいたけど、キンコさんが中央から別の警察を呼んで守ってくれたんだよね」
 六二年、「日本人の恩人、〃キンコさん〃を顕彰したい」との思いから、建設委員長となった長田さん。約六百人の協力者を得て、同年十二月除幕式を迎えた。鶴我七郎総領事から感謝状も贈られたが、フェレイラ氏は翌年、死去。
 胸像にするため、フェレイラ氏の写真を撮った賀陽巳代治ミラカツー市長は、
「百周年に向け、今年から行うイベントなどで歴史を伝えていきたい」と話す。現在、礎石などに老朽化が目立つため、近々修繕する考えだ。
 〃キンコさん〃がいなければ、今のミラカツーはない――。同地の数少なくなった語り部、長田さんは「歴史を忘れて欲しくない」と心から願う。