アレグレ「郷土」への旅=連載(上)=「80年前」がよみがえる=準二世、二世にとっても〃古戦場〃

2005年8月4日(木)

 入植八十年を迎えたアレグレ植民地。戦前に開かれ、最盛期には三百家族を数えたこの植民地には、いまも二十数家族の日系人が暮らす。五年に一度の記念式典にあたり、同地の出身者がサンパウロで作るアレグレ・ビリグイ郷土会(酒井清一会長)からも三十五人が故郷を訪ねた。わずか二日間の里帰り。その間に、アレグレの八十年がかいま見える。
 「五十周年祭をここでやったんですよ」、渡辺政男さん(77)はつぶやいた。一頭の馬が草をはむ空き地。その先に続く畑との境に小さな建物が見える。いまは通う人もない、東部アレグレ日本人会の会館だ。
 一九三六年、七歳でアレグレに入植した渡辺さんは十七歳までこの地で育つ。「ここで運動会をやりましたよ。カンポを作った時は、大人が地面を起こしたあとに僕らが踏んで地固めをしたものです」。七十年前の記憶だ。「古戦場ですよ」
 二五年に入植が始まったアレグレ植民地。ビリグイ市から二十五キロ、チエテ川沿いに開かれた同地には、モジアナ線やノロエステ線の近郊から入植が続いた。
 市内の住宅地に建つ入植十周年の記念塔。かつて教会があったこの場所も、いまは記念塔とは不釣合いな建物がたたずんでいる。
 東部アレグレの会館ができる以前、子供たちはこの教会で学んだ。「この上を歩いて遊んだものですよ」、渡辺さんは懐かしそうに見つめる。
 塔の正面には「入植五拾周年記念碑」と刻まれていた。かつてそこにあった「十周年」の文字は戦争中の日本語禁止で削られ、五十周年の時にあらためて刻まれたのだという。
 同地出身者の中田正さんの呼びかけでアレグレ・ビリグイ郷土会ができてから、今年で二十五年。毎年サンパウロで開く親睦会に加えて、五年に一度、アレグレで開かれる記念式典を訪れている。
 今回の旅に参加した人の多くが少年時代に入植した一世か、アレグレで生まれ育った二世。七十代、八十代、九十歳の参加者もいる。孫を連れて来た人、亡き妻の出身地を訪ねる人もいた。
 三五年、入植十周年の式典で四人の男性が先駆功労者として表彰された。檜浦慎一、谷口玉之介、大沢市太郎、そして沖山克巳。サンパウロから参加した沖山常夫さん(90)は、この沖山氏の息子だ。
 沖山さんが十歳の時、一家はレジストロからアレグレに入植した。「家は椰子の葉で作ったよ。当時は道が悪くてね。ビリグイ行のトラックが一日一便あったきりだった」。当時は徒歩で往復六時間をかけてビリグイまで郵便を取りに行き、植民地内に配っていたという。
 同じく九十歳で参加した大橋光男さんは三八年、二十三歳でアレグレに入植した。「最初の家にはポルタもなかったよ」と笑う。
 皇紀二千六百年を祝った四〇年当時、アレグレには三百以上の日本人家族が暮らしていた。東部アレグレ、コレゴ・セッコ、マクコ、パライーゾの四植民地にはそれぞれ日本人会があり、青年会があった。野球も盛んで、ノロエステ線各地の町との試合も行われていたという。「植民者が調子よくなっていた時代でした」と渡辺さん。そして、戦争の時代に入っていく。
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 里帰りの前日、一行はビリグイ墓地を訪れた。カトリックと日本式の墓標が混在する墓地。参加者たちは思い思いに墓参に向かう。墓を移した人も多いが、いまも親族が眠っている人もいる。
 「父の墓があるんですよ」。参加者の一人、破入栄一さん(78)だ。破入さんは三六年に父親を亡くし、サンパウロへ出た。「母親が苦労したよね」。「子供二人と、妻の両親の墓があります」、そういって墓地に入っていった夫妻は、出発のぎりぎりまでバスに戻ってこなかった。
 つづく(松田正生記者)