♪テン・ローパ・パ・ラバ?=パ洗染業者=協会50周年=日系洗濯屋の歴史=連載(4)=関連業での成功者も続々

2005年8月6日(土)

 集会や日本語の禁止を強いられ、敵性国人や「第五列」(スパイ)として扱われた厳しい戦時中。しかし、後の発展につながる萌芽もこの時代には生れていた。
 今でこそサンパウロ市の化粧品卸売り業の最大手と言われる「池崎商会」だが、始まりは一軒のチンツラリアだった。
 社長の池崎博文(熊本)は三歳で渡伯し、両親は最初にリンスのカフェザルで義務農年を終え、すぐにバストスの近郊に入植した。
 「僕はそこで育った田舎っぺなんです。サンパウロはもっと立派な人が多いだろうと、すごく劣等感を持っていた」。耕地で育った池崎には、四七年に出聖した時、道を歩いている人の姿は輝いて見えた。背広を着て、山高帽かぶって、手袋、ステッキが流行りの時代だった。
 「昔のサンパウロはシネマでもテアトロでも、背広に革靴じゃないと入れなかった。紳士の町だったんですよ。いまじゃ、あの頃のリオみたいになっちゃって」
 コロニアは勝ち負け騒動の真只中だった。「桜組挺身隊とかがあって、日本から迎えの船が来るとか言って騒いでました」と振り返る。
 同年、サンパウロ市トレメンベー区にあった日本人の洗濯屋で兄と共に修行し、すぐに任されるようになった。「朝七時から夜十一時まで働き詰めできつかった。おかげで最初は僕と兄だけだったのに、すぐに十二人も使うようになりました」。翌四八年にはそこを辞めるが、「洗濯洗剤や薬品はいい商売になる」とその時に気付いた。将来の方向性は、この時に定められた。
 一方、戦時中、山本家は洗濯業、洗染業だけでは飽き足らず、アルコールで熱くなるアイロンを発明して商品化し、大々的に売り出そうとしていた。
 というのも、四二年には次男の義美が中心になって、ホフマン製品を真似したドライクリーニング機を作って売り出し、成功していたからだ。
 戦時中の電気事情は劣悪で、電気の供給は一日おき、あるいは半日おきということも頻繁で、炭のアイロンが主流だった。
 「朝一番の見習いの仕事は、炭をチョンチョンと割って適当な大きさにして、ラッタに入れて職人さんの手元に配ることだったんですよ」。山本栄一は当時の日課をそう説明する。
 山本家はアルコールのアイロンの試作を重ね、二年、三年がかりでようやく売り物になりそうな商品を作り上げた。これから本格的に売り出そうとした矢先、戦争が終り、電気事情が急に好転した。
 「大ペルデだったよ」
 そんなことではめげなかった。すぐに、今度は手回し遠心分離機(脱水機)を考案し、当時ラッパ区にあった宿屋忠八社長の「噴火印」鋳物工場に製作してもらい、染物の外交員に売らせた。あっという間に五百台も売り切った。「マイス売ったかも。あの頃、洗濯屋というより、機械屋のようだった」と笑う。
 激増した洗濯屋を背景に、このような流れから、洗濯機メーカー「一色」を先頭に、兒玉、センダ、フジモト、ウスイ、ブラセッキなど数々の関連製造業も育っていった。
 少々変わったところでは、三二年に創立された、サンパウロ市ピニェイロス区の暁星学園(岸本昂一園長)の存在も目立った。地方出身の青年たちがサンパウロ市の学校に進学する際の寄宿舎を提供すると同時に、この勤労部で洗濯仕事の修行もできるようにし、手に職をつけさせた。
 高邁な理想を掲げ、組織的に洗濯屋の種を蒔いた。「労働を拝する所に素朴、謙虚、剛健の人格生る。世界の改造も、新社会の建設も自己の境地の開拓にある」(同学園報九号)などをモットーにし、キリスト教精神に基づく勤労思想を叩き込んだ。
 ここから、後にリベルダーデを日本人街として成功させる立役者となった水本毅や、同学園女子裁縫部からは幼稚園から大学までを揃える日系最大の学校法人「コレジオ・ブラジリア」創立者の坂本綾子など多彩な人材を輩出した。
 戦争という荒波にもまれながらも、さまざまな方向性や可能性が生まれ育っていた。
(敬称略、深沢正雪記者)

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