入植ブームも今は昔……=南バイーア入植50周年=移住地の空洞化進む=コッコで一攫千金叶わず

2005年10月6日(木)

 「金の成る木はコッコ(椰子)にあり」「一度植えたら百年は遊んで暮らせます」。日系不動産会社の派手な宣伝が受け、六〇年代に入植ブームが起こった南バイーア。その後コチア産組が団地を開設し、最盛期には十前後の日系移住地が誕生したが、農業の不振、出稼ぎ者の増加で、日本人会が現存するのは三移住地に。入植ブームも今は昔、往時の面影が薄れつつある中、八日には入植五十周年の節目を祝う式典が行なわれる。
 南バイーアでは日系人がもっと多く暮らしているテイシェイラ・デ・フレイタス市。静岡県出身の赤堀猪鶴さん(67)はタイヤ再生工場を経営する。
 赤堀さんは、南バイーア文化体育農事協会の会長だ。同連合会は、六八年に結成され、テイシェイラ・デ・フレイタス市(八十家族)を中心に、ジュエラナ(三家族)、ポスト・ダ・マッタ市(三十家族)、エウナ・ポリス市(五家族)の日本人会からなる。
 赤堀さんはこれまで三度日本へ行ったが、そのたびに日本とブラジル日系社会の変化の違いを考えたという。「ここは徐々におとなしくなってきた」。
 農業の行き詰まりによる移転者が目立ち、日本への出稼ぎ者も増加。空洞化が進み、消滅しかかっていた移住地もあったという。
 いちばん大きいテイシェイラ・デ・フレイタスの日本人会でも運動会などの年間行事が減っている。
 一方、新しい作物、農業技術で活路を見出す日系人もいる。
 「日本に出稼ぎに行くよりも、南バイーアでユーカリを栽培したほうが楽に稼げる」と話すのは農業技師の山田ジョーゴさん(36、三世)。
 権藤パウロさん(42、二世)はマモンの栽培方法を工夫し、平均の三倍の収穫を可能にしたという。
 南バイーアの日系人移住は、一九五五年に椰子栽培計画の現地開発員として、太田ルイスさん、佐々木正人さんがバイーア・ミナス鉄道線のタクアリー村に入植したことが始まり。
 翌年、田高与吉さん夫妻が同村に入植。その後各地から徐々に移り住む日系人が増え、タクアリー、アパラジュー、ジュエラナ、エルベシアが初期の移住地として栄えた。
 当初の主要作物は椰子だったが、収穫に時間がかかるため、入植者は短期作物であるパイナップル、スイカ、野菜などを栽培して生活するように。
 六〇年には、サンパウロ州から現地を視察にきた日系人によって南バイーア椰子拓殖会社という不動産会社が設立され、多数の日系人が入植。「金の成る木はコッコにあり」「一度植えたら百年は遊んで暮らせます」という派手な宣伝文句はそのときのものだ。
 さらに、七九年にコチア産業組合がイタマラジューとイタバタンに団地を開設したことで開拓地は広がっていった。
 入植五十周年記念式典は八日午前九時から、テイシェイラ・デ・フレイタス日本人会館(テイシェイリンニャ区オランダ街172)である。式典では、先没者慰霊法要のほか、移住地の草分けや功労者に感謝状が贈呈される。
 レシーフェ総領事、JICA関係者、地元議員を招き、バイーア連合やエスピリトゥ・サント州の日本人会も招待している。
 また同日本人会の建設地を提供し、テイシェイラの初代市長でもあるチモチオ・アルベス・ブリット氏も出席する予定。
 九五年の入植四十周年には、式典の後に記念誌『南バイーア四十年の歩み』がまとめられたが、今年は「もう日本語で書ける人が少ないから、作りたいが難しい」と赤堀さん。
 テイシェイラ日本人会の山下道教会長は「ここでまた横のつながりを強くしたい」と話している。