映画好き集まって研究会、会報も=銀幕を通して日本見つめた60年代、黄金期を追想

2005年11月5日(土)

 「懐かしいねえ、ほんと」。
 ガリ版刷の会報『映画』のコピーを手に声を上げる田中洋典さん(72)。かつて自らが手掛けた題字や挿し絵に目を細める。
 一九六〇年頃、二十代の映画好き約五十人が集った映画研究会。日本から船便で送られてくる新作映画を鑑賞、数カ月に一度会報を作るのが主な活動だった。
 『映画』を自宅に所有していたのは、サンパウロ市在住の石崎矩之さん(70)。
 「資料を整理していたら偶然見つかった。開いたら仙ちゃんの名前があるから、びっくりしてね」。長年文協事務局長を務めた故・安立仙一氏も映画評論などを寄稿していた会員の一人。
 何年に作られ、何号目なのかは両氏とも分からない。安立氏の「晩菊」(成瀬巳喜男監督)の巻頭評論が五頁、「太陽の墓場」「がめつい奴」などが新作映画として紹介されている。
 「そのころは何とも思っていなかったけど、今となれば歴史だもんね」。田中さんが委員長を務めるブラジル移民史料館運営委員会に寄贈した。
 四十数年ぶりに『映画』を手にして、二人の記憶時計は「コロニアの映画黄金時代」に逆回転を始めた。
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 五三年に初の日本人経営の映画館として開館したシネニテロイを中心に、リベルダーデが日本人街の色を濃くし、日本移民五十周年を終えたころ。
 「コロニアで楽しみといえば、映画だけだったよね」と石崎さんは振りかえる。
 ブラジルでテレビ放送が始まったのは五二年。テレビの普及率はまだ低かった。日本同様、テレビのある家に地域住民が集まった。テレビと隣人の合成語〃TELEVIZINHO〃という言葉があった時代だ。
 田中氏はかつて文協にあった奨学金制度で大学へ通ったことから、文協によく出入りしていたという。
 「ご恩返しってわけじゃないけど、色々とお手伝いしてたんですよ」。その一つに文協が所有していた十六ミリフィルムを地方に貸し出す仕事もあり、当時文協理事だったシネニテロイの田中義数社長と知己を得る。
 田中社長は研究会のため、コロニア封切り前に好意で上映。シネ東京の押田真佐男社長も協力した。ポ語字幕もまだ入っていない、ブラジリアでの検閲前の映画。
 「親鸞」「名も無く貧しく美しく」「豚と軍艦」。当時見た数々の名作が二人の口からこぼれ出す。三、四十人の会員が毎回訪れ、銀幕を通して日本を見つめた。
 田中氏は大学に通いながらアルバイトで映画の翻訳。石崎氏はラジオ・サントアマーロのアナウンサー。「給料の半分がペンソン代」だった。
 誰よりも早く見たいー。映画好きならではの強い思いと、ある種の優越感が若く貧しかった生活の精神的糧ともなったのかも知れない。
 鑑賞会が開かれていたのは、六〇年から二、三年。会報も十号くらいまで刊行。ガリ版印刷し、会員に配った。
 「それからはみんな忙しくなったからね」。二人が往時を回顧するのもつい最近の話だ。
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 五三年にベラ・ビスタ植民地(旧マナカプルー)に入植した石崎氏。十九歳の時、現地のブラジル人から「日本映画の〃ハッショモン〃がマナウスで上映中」であることを聞く。
 何だか分からなかったが矢も盾も堪らず、船着き場へ行き、いつ来るとも知れないマナウスへの渡し船を待った。「羅生門」だった。
 「映画館の音響が酷くて、三船敏郎なんか特に何言ってるか分からない。映像だけ見たって感じだった」と笑う。
 「今は自分で映画を(ビデオ、DVDなどで)所有して見る時代。ほんと当時から考えたら、夢の生活だよね」