その時「真珠湾攻撃」を知らされた=連載(下)=岸本昂一園長の祖国愛=今も慕う暁星の教え子たち

 真珠湾攻撃の翌年、一九四二年一月にブラジルは、日本など枢軸国側と国交断絶した。四三年三月二十一日夜、突然屈強な刑事数人が暁星学園の裏口からなだれ込み、大がかりな家宅捜索をおこなった。日本語書籍はもちろん、日本語の帳簿類、野球の道具まで没収した。岸本昂一園長にも取り調べが行われ、一カ月余り逮捕獄中生活を強いられた。
 その時の体験や第二次世界大戦下の苦闘を描いた『南米の戦野に孤立して』は、勝ち負け混乱の最中の四七年に出版され、発売一カ月足らずで三千部が売り切れ、すぐに五千部を再版したぐらい好評だった。
 同書の巻頭言には、次のように高らかに祖国愛を訴える一節がある。「日本人の伝統的精神を忘れるな。祖国の山河を生かせる者はアメリカでもなければスターリンでもない。日本人一人一人なのだ。祖国を想う情熱は我々がここに永住し、どこの国の人間にも負けない偉大な建設者になっていくことである」。
 この著作により、再び十日間の獄中生活を送らされ、思想犯罪課の取調べを受けた。すでに同学園で教育を受けたものは千二百人以上、その一部と愛読者代表らが擁護運動を展開し、法務大臣宛てに援護文と共に署名を送付した。この件は「帰化権剥奪」裁判に発展し、十年の永きにわたる闘争となり、最終的に岸本さんが勝った。
 戦後は学園も復活、岸本さんが糖尿病で体調を崩した七三年まで計四十年間も続いた。同時に雑誌『曠野』、のちに『曠野の星』を隔月年六回発行。途中、休刊などもあったが、七三年まで約三十七年間、多いときで約五千部を発行した。著書も九冊を数えた。
 二十年間にわたって同学園教師を務めた西原(さいばら)文子さん(90、高知)は、「岸本先生が地方を回っている間も『曠野の星』が発刊されるようにブラジル中に送るのが私の役目でした」と思い起こす。「先生は各地で活躍している人を掘り起こし、紹介したいという強い想いがあった。ブラジルという〃曠野〃に輝く星という意味で、雑誌で紹介していたのです」。
 長男ルイスさんは「親父は本当にブラジル社会のため教育に尽くした。国を愛し、繁栄を望み、社会に尽くす人だった」という。
 文協の小川彰夫副会長(63、二世)の母、瑞子(すいこ、故人)さんも同学園で教師をしていた。「学校が閉まって三十年以上もたつのにこうやって集まるのはすごい」という。
 戦後、学園は復活したが、時代の流れにはかなわなかった。戦前、サンパウロ市に親戚や友人のいるものは少なく、都会で子弟を勉強させたくても高い学費を負担できる親は少なかった。大半が地方で借地農生活をしていた一般移民にとって同学園は、まさに闇夜の終わりを告げる「暁星」だった。
 バウル近郊に生まれ、出聖して五五年から高校と予備校に通った四年間、勤労部で働いた杉尾教授(二世)はのちにUSPで三十一年間教鞭をとった。
 「昼間は汚れ物を取りに行ったり、洗濯、アイロンがけしてかなり疲れた。そして夜学でしょ。眠い時もあったけど一回も落第しなかったです」と振り返る。
 大橋恵子さんは「当時、勤労部があったから大学へいけた、サンパウロ市で勉強できたという人は多かった」と勤労部のシステムを振り返る。「今思えば、今のブラジルにこそ必要。そういうところがあったら、みんな勉強ができるのに」と、現在における意義を再認識した。
 『南米の戦野に~』は〇三年に日本の東風社から再出版された。コロニア出版物を日本で、というのは異例のことだった。日本ではその生涯に、改めて注目が集まっているようだ。

(おわり、深沢正雪記者)