「円売り」問題言い残すこと=作家=醍醐麻沙夫=連載(上)=確証がない噂や憶測

2005年12月14日(水)

 円売りのことが何度か個人攻撃めいた投稿記事になっているが、終戦当時のことを知る人がつぎつぎに亡くなり、また新聞記者も若い人になっているし、キチンとしたことを書いておいたほうがいいと思って、気が進まないままペンをとることにします。
 新聞にしばしば名前をだすのはM氏のご遺族にも申し訳ないと思いますが、私としてはこの件にかんしては最後の発言のつもりです。(私なりの総括なので、前回と重複する部分もあります)
 終戦後のブラジルでの円売りは、パ紙の「戦後十年史」に書かれたほどの規模のものではなかった、というのは、かってコロニアの常識でした。つまり、事情を知らないで興味本位に言う人たちはべつとして、戦中戦後にかけて実業界で責任のある立場にいた人たちの共通の認識だった。
 戦前は日本との通信さえアメリカの電信基地経由だった時代で、日本との商売の決裁もドルで済ますのが普通で、また商用や私用で日本へ行く人もごく少数だったから、金融関係にしろ商社にしろ多量の円紙幣をブラジルに置いておく必要はまったくなかったと言います。
 また、一九四二年のはじめという早い時期に主な金融機関や会社は敵性資産凍結をうけ、解除されたのは戦後もかなりあとだった。 多量の円がなかったのに、大規模な円売りがあったはずはない。また、大規模に行われたのならそれなりに売買の片鱗くらいは人々の知るところとなるはずだが、いくら調べてもそんな話はでてこない。あるのは例の「点と線」の点の話―つまり噂―だけです。
(私がそう言うと、「それなら円がなかったことを証明しろ」という人もいるけど、これは難題です)
 そのような一般的事実は事実として、かってのパ紙の「戦後十年史」はコロニアの刊行物のなかでもトップクラスの力作で、面白い内容がぎっしり詰まっています。
 コロニアの戦中戦後を書こうとするジャーナリストは、まず「戦後十年史」から出発するといって過言ではないでしょう。
 そのような「戦後十年史」のなかでもニセ宮様とか桜挺身隊などの事件とならんで目をひくのは円売りの噂です。あえて「噂」と書くのは、後年、それを書いた記者たちに尋ね、当時の事情で確認がとれていないまま書いたことを確かめたからです。
 私は戦後の混乱期を題材にした小説を書くつもりで、ずいぶんと色々なことを調べました(二編の長編を仕上げたが、気にいった出来にならず、発表していていません)。
 その過程で、臣道連盟とかニセ宮様のことは広がりがでて良かったけど、円売りの話は先細りで、詰まらないので題材としては捨てました(空想的な小説ならともかく、ある程度史実に基づいた作品を意図していたためです)。
 円売りのことで人の口に名前が挙がるのは戦後五十年たってもMさん一人です。M事務所として戦前から両替をしていたので、終戦時もある程度の円を持っていても当然の人物ではあります。
 また後には新聞社主としても名が通っています。後に、お付き合いをいただくようになって、不躾だったけど、直接確かめました。円の売買をしたことは否定しなかった。
 密告によって拘束され、取り調べを受けたという事実もあったそうです。ただし事務所を捜索され身体検査をされて、出てきたのは数枚の円にすぎなかったそうです。
 それがMさんの私の質問への答えだったけど、密告ほどの事実はなく取り調べをうけただけで釈放された経緯が当時のディアリオ・ポピュラール紙に載っているし、大筋でMさんの話は正しいのだろうというのが、私の判断です。
 また、アンチMの文章を書いた人は過去に四人ないし五人くらいいますが、その発言の内容も、噂や憶測をのぞけばMさんの話以上のことは含まれていません。
 刑事がしらべた報告を検事が判断して、容疑がみとめられれば起訴して裁判にまわす。容疑がなければ釈放です。要するに大袈裟な密告があった、ということです。
 当時の日本人社会は騒然としていて、ちょっとした情報や密告で警察に連行された時代なので、Mさんが警察につれていかれたこと自体は、まったく問題にならないと私は考えています。いろいろな取材で当時「警察に連れていかれて調べられた」という人には沢山会っていますから。
 起訴されたというのなら問題がありますが、起訴されなかったのは物的証拠も供述も得られなかった、ということです。
 かつてコロニアを不安に陥れたほどの大事件だったというなら、Mさんのほかに誰かいなくてはならない。それで私は未知のXを探しはじめた。もう三十年ほども前の話です。
       (つづく)