『遠い日々の奥アマゾン』=日本自分史大賞の国際賞=マナウス=川田敏之さんが受賞=キナリーからトレーゼへ=「幽霊植民地」=での体験もつづる

2006年1月14日(土)

 ブラジル在住者の自分史が二年連続、日本で入賞──。「第九回私の物語・日本自分史大賞(日本自分史学会主催)の国際賞に、川田敏之さん(75、長崎県出身)=マナウス=の『遠い日々の奥アマゾン』が選ばれた。移民史の研究などをライフワークにしている香山栄一さん(イビウーナ市)が推薦したもの。ブラジル移民の半生が昨年に引き続き、共感をよんだことで、今後も自分史執筆が盛んになるかもしれない。
 川田さんは五九年六月に、家族八人でアクレ州キナリー植民地に入植。六三年に家族四人でトレーゼ・デ・セテンブロ植民地(=グヮポレ移民、ポルトベーーリョ近郊)に転住し、翌六四年にキナリーから両親や兄弟を呼び寄せた。現在はマナウスで、野菜や果物の卸しで生計を立てている。
 『遠い日々の奥アマゾン』は、移住から妻幸子さんが九九年に亡くなるまでの生活を悲喜こもごもに振り返った作品。それに加筆・修正し、『片道切符 奥アマゾン』も綴った。
 トレーゼ・デ・セテンブロ移住地(ポルト・ベーリョ近郊)の『グヮポレ移民50年史 アマゾンに生きる』(二〇〇三年、日毎叢書企画出版)に受賞作の一部(第二章 ロンドニア州ポルト・ベーリョ)が収録されている。
 トレーゼ植民地は五四年に、辻移民の枠の一つとして創設された。赤道直下の労働やマラリアなどの風土病のため、入植者約三十人家族が相次いで脱耕した。移住者の栄養不良をみた、日本人医師が「幽霊植民地」と表現するくらい、過酷な生活環境だった。
 川田さんは移住地創設から約十年後に入植。組合での事務仕事を引き受けながら、日本語学校で教壇に立ち理科を教えた。妻の幸子さん(故人)は住宅の一部を改造して、食料品店をオープンさせた。
 転住当初は電気も冷蔵庫もなかった。一カ月後にガスコンロと冷蔵庫を入れると、コロニアの人たちが見物に訪れるようになり、急に文明国に住んでいるような思いがしたという。
 小川にカラーやトライ―ラが生息しており、仕事の合間に魚釣りを楽しんだ。幸子さんは魚を食せるようになれたことが気にいった。
 六六年にはサンパウロと道路網がつながったことで、物資の輸送が盛んになり、町は活気にあふれた。川田さんはセスナ機を購入。錫鉱山までビール、ガソリン、重油などを運び、荷の少ない時には「鉱山のナイトクラブ」で働くホステスの送迎までしたそうだ。
 「序 移住の夢・霧の牧場」、「第一章 アクレ州キナリー」、「第三章 アマゾ―ナス州マナウス」も読み応えがある。妻幸子の死の描写でクライマックスを迎える。
 「仕事に追われる毎日でした。生前妻が『退職後に、酒ばかり飲んでいてもしょうがない。少しは文章に親しむようにしなさい』と口癖のように言っていた。家内の供養になると思って、文章を書き始めたんですよ」。
 川田さんは声を弾ませて、日本での受賞を喜んだ。作品中には、幸子さんの短歌も散りばめられている。
 自分史の執筆は、元JICAシニアボランティアの安達正子さん(老ク連に赴任)が火付け役になって、日系コロニアでブームになった。昨年は、遠藤菊子さん(サンパウロ市)の『わが生い立ちの記』が同じく国際賞を受賞している。