阪神大震災から11年=あの頃、日系ブラジル人は――被災体験記者が聞く=連載(1)=倒壊家屋の下敷に―失神=筒井律子さん=受けた沢山の優しさ

2006年1月17日(火)

 午前五時四十六分―。また、あの寒い朝を思い出す。一九九五年一月十七日、近畿地方を襲った阪神・淡路大震災は、一瞬にして神戸を灰色の街に変えた。記者は当時十一歳。被害が最もひどかった神戸市東灘区に住んでいた。次々と運ばれる遺体、瓦礫の下から聞こえてくるうめき声。まるで爆撃を受けたかのような家、ビル、高速道路…。いつか写真で見た第二次大戦中の空襲の跡地を思い出した。当時の新聞をめくっていくと、毎日桁違いに死者数が増えていた。いまさらながら被害の大きさを実感する。六千四百三十四人。この数字には、日本で火葬された八人の日系ブラジル人も含まれる。当時はインターネットもあまり普及していない。日伯間の至急の連絡もままならず、コロニアでも大きな波紋が広がった。今年で震災から十一年。あの頃、被災地にいた日系ブラジル人は―。無事、帰国した被災者に話を聞くと同時に、自身の震災経験を改めて思い起こした。(南部サヤカ記者)

 「病院で地震友達ってものができちゃうもんなんですよ」。辛い震災体験を吹き飛ばすかのように笑う、筒井律子さん(81、サント・アマーロ在住、北海道出身)。震災後の入院生活中に撮った写真を手に、当時の様子を説明する。倒壊した住居の下敷きになり、一時は医師に「車椅子での生活を余儀なくされる」とまで言われていたが、現在は杖があれば歩けるまでになった。
 九一年の出稼ぎが初めての帰国。芦屋市内のある会社社長宅に住み込み、社長の母親の話し相手を仕事にしていた。地震前日、「明日は牡丹雪が降る」というニュースを耳にした筒井さんは、当日早朝から庭で雪の撮影をしていた。突然、真冬の朝に生暖かい風が吹いた。「おかしい」。すぐ家に戻った。「その瞬間、どっかーんと爆発音が聞こえた。次は地獄の底からのうなり声のような音が聞こえてきた」。急いで外に逃げようとするが、地面を波打つ揺れに足をすくわれ前に進まない。次の激しい縦揺れで天井まで突き飛ばされ、頭を叩きつけられた。意識を失い、倒れこんだとたん四方から倒壊する家の下敷きになった。
 意識ははっきりしていた。「こんな死に方したくない、そう思ったら外から声が聞こえてきたから思いきり叫んだ」。結局、救助されたのは、地震発生から約十三時間経った午後七時。外はもう真っ暗だった。
 記者が住んでいた神戸市東灘区にもたくさんの遺体、けが人が冷たい道路に所せましと寝かされていたのを覚えている。同区から徒歩で十五分ほどしか離れていない芦屋市では、筒井さんも道路で血だらけのパジャマのまま、麻酔を打たずに頭を三十五針縫う処置を受けていた。「もう身体の感覚がなくって、寒くもないし、痛くもなかった」。病院に運ばれても足の踏み場もないほどの地下室に寝た。ベッドに横になったのは二日後だった。
 足、ひざ、腕、首を骨折した上、脊髄を損傷する重症。十ヵ月間は足をひねられても何も感じなかったが「絶対にもう一度歩いて息子やお友達に会う。一生歩けなかったらどうする?!と思って」。全力でリハビリに励んだ。当時、名古屋に出稼ぎをしていた友達の竹内富士枝さんもかけつけた。「私は福井地震の被災者やから心配で…」。同地震は一九四八年に発生。阪神・淡路大震災はこれを超える戦後最大の地震となった。
 医者、看護婦にもとても親切にしてもらったそう。また、同じ体験をした入院患者と「地震友達」にもなった。「あきらめたことはなかった。みんなから受けた優しさがあったから頑張れた」と、応援してくれた人たちからの寄せ書きを眺めながら、再度喜びをかみ締める。
 地震の翌年、グアルーリョス空港に着いた時には婦人会の友達が「万歳!万歳!」と出迎えてくれた。「嬉しいのやら泣いていいのやら。息子と会えた時はもう嬉しくてね。なんや、ほっとした」。
     ◎
 「実は―」。先ほどの明るい声から一変、深刻に話し始めた筒井さんは一九二八年コチアに入植。帰国した第一の目的は出稼ぎではなく、渡伯時、生き別れとなった姉の消息を確かめるためだった。日伯間で出し合った手紙を持って探し歩いた。そのとき、偶然、姉を知る人と出会い、その夫に出会えたが、姉は戦争ですでに亡くなっていたという。「どこかもう忘れたけど、姉さんの墓参りもしたよ。その土をブラジルに持って帰ってこようと思ったけど、地震が全部持ってちゃったよ」と声を詰まらせた。「でも、消息を確認できたからよかった。自分の未来の生計を立てるために出稼ぎに来ている被災者を考えると、どんだけ情けない思いしただろうと思うよ……」。
 まだ後遺症が残る足を引きずりながら、一人で暮らす筒井さん。「どうやって瓦礫の下から出てきたのか、わからんけど今、生きているだけでありがたい。前向きな考えで生きていくのがコツですよ」とまた、元気な笑顔に戻った。
      (つづく)