パラグァイ日本人移民発祥地=ラ・コルメナでぶどうたわわ=「ならせる努力」の結果=がまんして良い時代が来た=スモモ、栗、メロンも栽培

2006年1月18日(水)

 「ラ・コルメナ大好き祭り」と銘うった、コルメナ・アスンセーナ農協(パラグァイ、金沢要二組合長)主催の『第二回ぶどう狩り』が、八日行われた。晴天に恵まれ、首都アスンシオンやラパス移住地などからの来訪者を含めて、百五十名ほどの参加者がぶどう狩りを満喫した。
 案内状には「今年もぶどうシーズンが来ました。ぶどう栽培者はこの一年間、良質のぶどうづくりに頑張りました。皆様にご賞味いただきたく・・・」とあるように、ラ・コルメナ移住地は、ぶどうをはじめ良質のマンゴ、スモモ、栗、メロンなど果物の栽培地としても知られている。
 アスンシオンの南東約百三十キロに位置し、街の入口にはCapital de Frutasの看板が立っている。市の人口は五千三百人、その中で日系は三百四十七名(〇四年十月現在)だ。移住地が始まったのが一九三六年(昭和十一年)五月十五日。
 この日は入植記念日となっている。ぶどう栽培の試みが始まったのは、一九三九年頃からだったが、気候風土が必ずしも適しておらず、最後にニアガラ種が残った。現在はマスカット、巨峰、紅富士、ルビー、そして、加工用のカンピーナスも栽培されている。
 「ブラジルやアルゼンチンなどと違い、当地ではぶどうを『ならせる努力』が特に必要なのです」と説明会でJICA日系社会シニア・ボランティアの米田七郎さんが強調していた言葉
が印象的だった。     「苦あれば楽あり」だよ、と三井波夫さん(84)。老人会の一つ、アスンシオン寿会(石田完会長・愛媛県)一行は、三井波夫さん(長野県 )の農園でぶどう狩りを堪能した(写真)。
 三井さんがラ・コルメナに入植したのは一九三八年だった。父親が船乗りだったので、外国の事情をかなり知っていたため、新天地を求めて家族で新しい移住地に来た。が、太平洋戦争、チャコ戦争によるパラグァイ国力の疲弊、赤党・青党の確執、バッタ大群の被害など内的・外的要因に翻弄され、当初の約二十年間はうだつの上がらない期間だったようだ。「親をうらんだこともあった。しかし、我慢すれば必ず良い時期が来る、と頑張ったよ」と淡々とした表情で述懐する。
 三井さんは初期の農協運動のリーダーとなり、組合長、日本人会会長などの要職も歴任している。農園は長男の昭さんに譲っている。その長男の行弘さんが次の後継者として育っており、三代続く営農を確立した。今はコルメナ福寿会の会長として往年の苦労仲間たちと親交を楽しんでいる。
 移住地に近づくと、右手に「コルメナ富士」が見える。一九三六年初期に移住地探しに関わった一人で、パラグァイ日本人移民の祖となった笠松尚一翁 (二〇〇一年没)は「セロ・アブラグアへ登り、標高二百八十メートルの山頂から見たラ・コルメナの第一印象は非常に良く、恐らく、この地こそ日本人移住者の永久の移住地となるであろうと思った。祖国の田舎風景そのままであった」(引用・パ国移住五十年史)と述べている。
 セロ・アブラグアこそ今の「コルメナ富士」だ。パラグァイにおける日本人移民発祥の地は自然景観も日本の面影を残している。