阪神大震災から11年=あの頃、日系ブラジル人は――被災体験記者が聞く=連載(2)=夢か現実か分らなかった=猪坂スエリーさん=初体験、恐怖で震え

2006年1月18日(水)

 地震発生から七日後の二十四日午前、グアルーリョス空港に三十六人のブラジル人被災者が無事、到着した。帰国費用はブラジル政府が一切負担。一刻も早く、ブラジルに帰って親、兄弟に無事を知らせたい―。そう願いながらも、すぐには帰国できず避難所に身を寄せていたブラジル人は約百人いたという。
 県費留学生として、神戸大学で日本美術を学んでいた猪坂スエリーさん(39、二世)は、三ヵ月後の四月に帰国した。「早く戻りたかったけど、出稼ぎではなくて留学生だから県からの許可がおりなかった」。
 住んでいた学生寮は、中央区から出発するモノレールで約五分に位置する埋立地、ポートアイランドにあった。地震発生時は、「地震なんて今まで知らなかったから夢か現実かわからなかった」と振り返る。同埋立地は比較的被害も少なく、寮も倒壊せずにすんだ。
 地震が収まり、部屋に戻って窓から外を見たら、町が燃えていた。「恐ろしくて震えた。すぐにブラジルに連絡して無事を知らせた」。 
 被害が最もひどかった東灘区周辺とは電車で十五分ほどと近い距離にあるのにも関わらず、こんなにも被害の差があるとは―。記者周辺には情報もほとんどといっていいほど入ってこず、親戚の消息もわからないまま何日かを過ごした。
 猪坂さんもこの被害の差には驚いたという。「ここは情報も入ってきた。死者がどんどんと増えていったことも聞いていた」。
 しかし、この埋立地から一週間は外に出られなかったという。「食べ物は家にあったから助かった。でも、一週間たって、それも底をついたから大阪の友達の家までフェリーで行った」と思い出す。
 二週間後、神戸に帰ってきた時は、あまりの状況のひどさに圧倒された。「瓦礫だけの町になっていた。人々の苦しみは見るまでわからなかった」。
 同じ兵庫県に住んでいても一概には「被災者」とはいえないのではないか。被害がひどかった阪神地区に住んでいた記者の友人が「私は親戚が一人も死んでいないし、家も壊れていない。怪我もしていない。本当の被災者ではないのかも……」と言っていたのが印象的だった。
 震災から十年目の一月十七日に生まれた赤ちゃんを抱く猪坂さん。「すごく偶然です。やはり地震を忘れてはいけないということでしょうね」。
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 「いつもなら起きていたけど、その日は寝ていた」。地震発生から一週間後に書いたという日記を読む井上久弘さん(67、二世)は当時、兵庫県の西に位置する播磨区のプラスティック工場で働いていた。
 「ものすごく長く感じた」という地震が収まったあと、すぐにブラジルの家族に連絡。テレビをつけると「なんとも見るに無残な光景だ。なぜ神戸の町がこんなになったのか……」。
 五十四日ぶりに神戸に行った時は電車が東に進むにしたがって被害が深刻になっていったという。「見る人みんな笑顔がなかった」と話し「みんなしきりに写真を撮っていたが、私はとてもシャッターを切る気にはなれなかったよ」。
 そういえば、生き埋めになった人を必死で救助しているのにも関わらず、報道陣はカメラを向けるだけで、手を差し伸べようとしなかった。小学生ながらそれを見て悲しかったのを覚えている。必ずしも全員がそうではないのは、今になってわかる。記録にも残さないといけない。しかし、被災地にいた人は、カメラを向けられるたびにどんな思いをしただろうか。
 井上さんは九八年まで播磨区に滞在したので少しずつ復興していく様子を見ている。「私はブラジル人だからびっくりしたよね。どんどんビルが建って。日本の凄さを感じた」と感想を話した。
(つづく、南部サヤカ記者)

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