阪神大震災から11年=あの頃、日系ブラジル人は――被災体験記者が聞く=連載(4)=苦難乗り越えた日系人=「記者も忘れず生きたい」

2006年1月20日(金)

 昨年十二月二十二日、総務省消防庁は、兵庫県内の阪神大震災の死者数六千四百一人を改め、一人多い六千四百二人とすると発表した。十一年経った今でも爪あとは残っている。それとは裏腹に、何事もなかったかのように整然としている神戸の街並。約六百メートルにわたって横倒しになった阪神高速道路も、一年八ヵ月後には全線開通するなど、街全体はわずか二年で復興を遂げたように人々の目には映る。
 だんだんと薄れていってしまう記憶―。記者が住んだ神戸市東灘区は死者数が最も多く、ほとんどの建物は形をなしていなかった。古い三階だて社宅の二階。玄関のドアは天井がのしかかり開かない。唯一崩れなかった二段ベッドで家族四人身を寄せ合い、しばらくじっとしていた。ただ怖くて、大切にしていたガラスの人形が粉々になっただけで泣いていた。揺れがおさまったら必死でベランダから逃げ出し、外を見渡した瞬間、衝撃が走った。
 周囲の建物のほとんどが、ぐしゃりと崩れている。しばらくは放心状態だった。次々とけが人が運ばれていく。「助けてくれ」。瓦礫の下から伸びる手。燃える家。「痛かったやろ、痛かったやろ」と、毛布にくるまれた遺体のそばで泣いている人。ただ見ていることしかできなかった。
 夜になっても鳴り止まないサイレン。余震におびえ一睡もできない。「逃げろー」。近くで火事が発生したので、夜中三時に逃げた。市内に住んでいた祖母が無事か心配だったが、真夜中、歩いて会いに来てくれた時は安心したと同時に驚きもした。
 トイレ、水、電気、何もない。衣類、食糧、食器などでめちゃくちゃになった家に入り、前日の残りご飯で作ったおにぎりを近所の人と分けあったが、寒さで凍ってしまったのを覚えている。
 何日か後、線路を歩いて隣の西宮市まで行き、そこから電車に乗って滋賀県にある祖母の家に向かった。線路の途中、「負けるな」と書かれた張り紙とともに置かれていた紅茶。おいしかった。大阪に着いたときは、被害が少なく、別世界のように感じた。
 記者は当時十一歳。自身の周囲のことしか見えなかった。だが、ここブラジルで外国人被災者の存在を認識し、改めて震災について考えるきっかけになった。
 日本とブラジル。その距離は遠かった。通信が途絶え、安否を気遣う家族の心境は想像を絶するものがあった。異国の地で、まさかこのような災害に遭うなど思いも寄らなかっただろう。記者の住んだすぐ近くで、彼らが倒壊した建物の下敷きになっていたことなど全く想像もつかなかった。
 その一方で、被害が少ない地域に住み、客観的に地震を見ていた人もいれば、日本で火葬された八人のブラジル人もいたのだ。こちらに来て始めて、日系ブラジル人が「被災者」と結びついたのだ。
 今回の取材で、地震を懸命に乗り越えた日系ブラジル人被災者たちを目の当たりにし、「共に生かされたチャンス」があることを実感した。この地震を忘れずに生きていかなければならない、強くそう思う。
(おわり、南部サヤカ記者)

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