ブラジル雑語ノート――「和泉雅之・編」の〃順不同〃事典――=連載(7)=ファヴェーラ=みすぼらしい野営地に似た居住区

2006年2月9日(木)

 ファヴェーラ (Favela) は、ブラジル特有のものとして、外国にも知られている。日本では、かつて「スラム街」とか「貧民窟」という訳語を使っていたが、最近はポルトガル語をカタカナ表記し、「ファヴェーラ」または「ファベーラ」と書くケースが増えてきた。しかし、ファヴェーラの発祥と、これまでの推移について、誤解している人は多い。
 名称の由来は、ファヴェーラと呼ばれる樹木。トウダイグサ科の低木で、学名はジャトロファ・フィラカンタ (Jatropha phyllacantha Muell. Arg.) 。東北ブラジルのカアチンガでも、降雨量がとくに少ない地方でよく見られる。高さ三ないし十メートルの落葉樹。葉の表裏と、縁辺の突起部に小さなトゲがある。トゲをつうじて、刺激性の樹液を分泌し、直接ふれると皮膚が焼ける。
 この樹木が、なぜリオの居住区名として使われたのか。それを理解するには、一八九六年十一月から翌年十月まで、一年近くつづいた、「カヌードスの戦い」について知る必要がある。バイア州北部のカヌードス牧場(現カヌードス市)を舞台とする内乱を鎮圧するため、軍隊が派遣された。派遣軍が布陣したのは、カヌードスの集落をみおろす丘の上。そこには、ファヴェーラの木が点在していたので、地元民は「アルト・ダ・ファヴェーラ」(ファヴェーラ高地)と呼んでいた。
 カアチンガのゲリラ戦が展開されると、最初の一週間で軍服は破れ、陣営の天幕も失われた。ほとんどの兵がボロをまとい、ヒゲぼうぼう。空腹をかかえる姿は、乞食そのもの。天幕の代用にウシ(食料として屠殺したウシ)の皮を覆いとしたり、カアチンガの細い枝葉を使って壁とした。その様子は、とても軍隊とは思われず、まさしく「乞食部落」というにふさわしかった。
 内戦が終わり、一八九七年十一月半ば、リオ駐屯部隊が凱旋したとき、臨時雇用兵はすぐに解雇された。数百人にのぼる失業者の群は、とりあえず、ドン・ペドロ駅(セントラル鉄道の始発駅)の近くにある岩山(現モーロ・ダ・プレヴィデンシア)にのぼり、そこへ小屋をつくった。建築材料を買うカネはない。あたりの樹木を切り、ほかから板やボロ布などを集めた。できあがった集団地は、ファヴェーラ高地の陣地と変わらない貧相なもの。かれらは、自虐の思いをこめて、「ファヴェーラ高地」と名づけた。
 二十世紀に入ると、工業化が進められていたリオへ、東北ブラジルのカアチンガ地帯から、大量の内国移民が流れこむようになった。かれらもまた、あちこちの丘にバラック小屋をつくった。一九三〇年代前半における不景気は、大量の失業者を出し、同時に内国移民の数を増大させた。リオとサン・パウロでは、新たなファヴェーラが出現。貧民の集団居住区であり、バラック小屋の外観は、いずれも似たようなもの。すべて、「ファヴェーラ」と呼ばれた。
 ファヴェーラは、ほかの都市へとひろがったが、一九七〇年代から一九八〇年代にかけて、各市役所が撤廃対策を講じたため、外観も内容も変わった。貧民集団地ではない。住民の大部分は、定職を持ち、電気と水道があるふつうの文化生活をいとなんでいる。今日では、なにをもって「ファヴェーラ」とするのか、定義しにくくなった。スラム街や貧民窟というわけにはいかない。それでも、住民は「ファヴェーラ」という名にこだわる。この名をはずすと、市役所や政治家の支援がえられないからである。政治家にとっては大票田であり、ファヴェーラの住民は大切な支持者。名目だけでも「貧しい」となれば、選挙のつど資金をばらまくことができる。今日のファヴェーラは、そういう「政治家と癒着した甘え者(ちゃっかり者)の集団地」といえるかもしれない。【文=和泉雅之】

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