ブラジル雑語ノート――「和泉雅之・編」の”順不同”事典――=連載(9)=パン・デ・アスーカル=パンに似た形の製糖用型枠

2006年2月15日(水)

 パン・デ・アスーカル (Pao de Acucar) という言葉は、日本人の間で、かなり誤解されている。これを「砂糖パン」とするのは、まったくの誤訳。今日なら、そういう名前のパンがあっても、不思議ではないが、十六世紀のポルトガルには存在しなかった。なぜなら、当時のヨーロッパで、砂糖は医薬品と同じく、ひじょうに高価なものだったからである。毎日食べるパンに砂糖を使うのは、もってのほか。
 パン・デ・アスーカルというのは、砂糖をつくるときに使う型枠をいう。サトウキビをおしつぶし、汁をしぼったあと、大きな鍋で煮詰める。煮詰めた濃縮液(分蜜糖)を、木製の型枠に流す。冷えてかたまったものを、砂糖(粗糖)として販売した。冷却と固形化に使われる型枠は、木をくり抜いたもので、小さな臼といってもよい。手彫りであるから、大きさや形はふぞろい。穴の直径は十二ないし十八センチ。深さは二十ないし二十八センチ。
 型枠からとりだした砂糖は、基部が円形、先端がやや細い長円形をなす。山の形をしているが、半分に切ったパンとも似ている。そこで、ポルトガル人は、「パンに似たアスーカル(砂糖)のかたまり」という意味で、パン・デ・アスーカルと呼んだ。「パン形をした砂糖の型枠」である。
 木製の型枠と、それから取りだした砂糖の両方に、この名が使われた。パンの形といっても、いろいろある。十五世紀のポルトガルで、どんな形のパンが製造されていたのか、想像しにくい。おそらく、パン・デ・カセッテ (Pao-de-cacete) ではなかろうか。ラグビーのボールをもっと細長くした形のパンである。それを半分に切ったものは、粗糖の型枠と似ている。今日の製パン業界では、あまりにも形が多様化しているため、「パンに似た形」といっても、どんなものか説明のしようがない。五世紀以上も昔に、パンは数種類しかなかったはずで、だれにでも理解できたのであろう。粗糖の型枠に「パン・デ・アスーカル」と名づけたのも、当時は、それなりの意味があったといえる。
 リオデジャネイロ市のウルカ海岸に、パン・デ・アスーカルと呼ばれる観光名所がある。標高三八五メートルの岩山で、ブラジル在住の日本人は、この名について、「砂糖パン」と説明することが多い。聞く側も、それで、なんとなくわかったような気がするらしい。しかし、「なぜ砂糖パンなのか?」と質問すると、うまく答えられない。なぜなら、砂糖をつくるときの、型枠について知らないからである。今日、この型枠は使われていないので、どんなものであるかは、古書や古図に頼るしかない。型枠の予備知識があるなら、グアナバラ湾入り口の岩山について、「粗糖(パンに似た形の砂糖)と同じ形をした岩山」と説明できるであろう。ただし、だれが、いつ名づけたのかは不明。
 一五〇一年一月一日、ポルトガル人探検家、アンドレー・ゴンサルヴェスは、グアナバラ湾へ停泊した。そのとき、湾を見て「幅ひろい大きな川」と錯覚。新年最初の日だったことから、「一月(ジャネイロ)の川(リオ)」という意味で、リオデジャネイロと命名した。しかし、岩山の話は伝わっていない。その後、ポルトガル人探検隊は、数組がリオデジャネイロへ寄港している。いずれも、岩山についての記述を残していない。一五六五年に、メン・デ・サーが、フランス人侵略者を追い払うため、リオデジャネイロへ到着したとき、岩山の対岸(現ボタフォゴ海岸)に本陣を構え、町づくりをはじめた。そのころには、山の名前があったはず。しかし、当時の語り手であるガブリエル・ソアーレスも、ブラジル地誌の権威アイレス・デ・カザルも、「パン・デ・アスーカル」命名の経緯は説明していない。【文=和泉雅之】

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