県連・第24回移民のふるさと巡り=ノロエステ巡礼=連載(2)=〃最古〃の日本墓地か=運平の墓にピンガを注ぐ=平野植民地

2006年2月15日(水)

 一行は午前十時過ぎ、カフェランジア市中心部から二十キロほど離れた、平野植民地内の浄土真宗・平安山光明寺へ移動。その間、中沢県連会長ら代表だけが同地の創始者、平野運平の墓のある日本人墓地へ向かい、地元の人々と一緒に墓前追悼法要をし、順番に焼香した。
 中沢会長と南雲団長は、平野運平が大好きだったピンガを墓にたっぷりと注ぎ、残りを参列者が分けて故人を偲んだ。平野が亡くなったのは一九一九年二月六日で、享年三十四歳の若さだった。植民地を拓いてわずか四年、スペイン風邪をこじらせたのが死因。子孫も残さなかった。
 同寺の槙野勲法務使(83、二世)によれば、この日本墓地は、国内に二つしかない日本人専用墓地で、「アルヴァレス・マッシャードよりも古いんです」とのこと。先発隊の七人が入った一九一五年から数えて、昨年九十周年を祝ったばかり。現存する最古の植民地の一つだ。「最初はマラリアがひどくて、棺桶すらなくて柳ごおりに入れてね」という話は有名だ。
 一方、星名謙一郎と小笠原尚衛が共同経営ではじめたアルヴァレス・マッシャード駅のブレジョン植民地は一九一七年に売り出しが開始され、初入植は翌一八年だ。マラリアによる累々たる病死者を出した平野植民地だけに、墓地は早い段階からあったとすれば「最古」の可能性はある。
 同地で生まれ育った二世の槙野さんは「記録には残っていないが、私が子どもの頃にはすでにあったので二〇年代前半にはあった」と証言する。親は広島出身。「ここで生まれ終わろうとしてます」と笑う。
 槙野さんによれば、光明寺も創立七十八年目、本道建立五十周年で、国内最古の寺という。病死者供養、鎮魂のためにどこよりも先に作られたのだという。
 「最初は五、六人の年よりが集まって法話会を開き、だんだん人が多くなった」とその創立経緯を振り返る。三年前に森部唯信さんが亡くなって以来、最古の寺に住職は不在となった。
 「ここにあった旭小学校は三大校の一つだったんですよ」と目を細める。一九三〇年ごろ、生徒数は三百人を数え、日本人教師だけで五人、ブラジル人教師も三人いた。一番はサンパウロ市の大正小学校で、二番はバストスの小学校だったという。
 一行は正午前、光明寺で平野運平八十七回忌追悼法要に参加した。父親が七人の先発隊の一人で現在、第一平野植民地の山下従良(ジューリョ、71、二世)会長は挨拶の中で、「先発隊は山を刈って、ドラードス川に橋をかけ、家族を呼んだ。その始まった場所に現在も墓がある。太陽光線が隠れるぐらいガファニョット(バッタ)の大群がきて作物が壊滅したり、マラリアの災難にも直面した」と歴史を振り返った。
 最大三百家族を数えたが、この第一平野は現在わずか十二家族のみ。第二で十五家族、第三で二十八家族という。それぞれに会館を持つ。
 列席したカフェランジア市長のオリヴァウド・ガゾットさんは、「日本移民は世界の反対側からきて、大変な苦労をされた。その貢献は素晴らしいものであり、心からの感謝を捧げたい。我が市の恩人にこのような供養をすることは大変意義深い」と語った。
 平野植民地歌を全員で唱和し、合掌、礼拝して法要を終えた。昼食には鳥の唐揚げ、竹の子の煮物などのご馳走が用意された。最後に、「行け行け同胞」「ふるさと」を合唱、網野弥太郎県連顧問の音頭で「平野植民地、バンザーイ」と三唱して、惜しみながら現地移住者との懇談を終えた。
(つづく、深沢正雪記者)

■県連・第24回移民のふるさと巡り=ノロエステ巡礼=連載(1)=つわものどもが夢の跡=悲劇の平野で追悼捧げる