県連・第24回移民のふるさと巡り=ノロエステ巡礼=連載(4)=アラサツーバ=百周年に皇室のご来臨を=発祥の地から熱い期待

2006年2月17日(金)

 プロミッソンの上塚公園を後にした一行は、七十キロ奥に入ったアラサツーバへ。まずはホテルで荷を下ろし、シャワーを浴び、照りつける陽射しの中でかいた汗を流してさっぱり。午後七時半からアラサツーバ文化協会会館で行われたノロエステ連合日伯文化協会による歓迎会に出席する。
 まずは、同文協太鼓部「竜鳴和太鼓」の青年ら約三十人の勇壮な演奏で歓迎され、文化婦人部の混声合唱団十八人が「大きな古時計」「ふるさと」など三曲を披露した。ピンク色のお揃いの衣装に身を包んだ合唱団は、澄んだ歌声を会館いっぱいに響かせた。
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 会館の舞台横にはさりげなく、同連合が推す百周年記念事業「アラサツーバ文化センター」のイメージ写真のパネルが飾られていた。
 同連合第二地区会長の加藤孝アラサツーバ文協(以下、ア文協)副会長は、「ジョルジ・マルリ・ネット市長は、日本人がこの土地の開拓に努力してくれたお礼として、五百万ドルの資金が日本からくれば、土地を無償で譲るといってくれてます」と説明する。
 実は、〇八年には同市も百周年を迎える。もし文化センター建設が具体化すれば、同市にとっても市制百周年記念事業の目玉になるわけだ。同パネルをよくみると、日伯学園も組み込まれている。「我々、日系子孫に日本文化の価値を伝える努力に協力をお願いしたい」。
 あいさつの中でア文協の高橋邦雄会長(78)は、一九一五年にはじまった入植の歴史を振り返った。同一五年六月にビリグイ、八月にはア郊外のアグア・リンパ地区に入ったことから計算すれば、今年入植九十一周年になる。つまり、平野植民地の創立と一緒だ。
 同文協自体は、一九二八年に三十余家族が集まってアラサツーバ日本人会として始まった。同管内の邦人は一千五十家族、五千六百人を数える時代もあった(『アラサツーバ文協五十年史』)。初代会長の大原栄蔵さんにはじまり、〇八年には創立八十周年を迎える古い団体だ。
 一九五〇年代に起きた南米銀行取り立て騒ぎの時に、自分のファゼンダをブラジルの銀行の抵当に入れて現金を借り、それで救ったア文協の安瀬盛次第三代会長のエピソードを振り返った。同会長は同地定住者第一号といわれ、一九三七から一九五四年まで、十七年間のながきに渡って要職を遂行した。
 現在、同文協には日本語モデル校があり、生徒数は約八十人。コンピュータ教室や移民史料館もあり、民謡、コーラス、社交ダンスなどの多彩な活動の報告をした。現会員数は七百五十人だが、その家族を加えると二千五百人にもなる。
 ノロエステ連合の白石一資会長(70、二世)は「百周年では、移民の発祥の地ノロエステに、ぜひ皇室に来ていただきたい。汗と血のにじんだ先輩がたの霊を慰めるには、皇室に来臨いただくのが何より。ぜひ、県連のみなさんの協力をお願いします」と真摯に訴え、会場からは同意をしめす大きな拍手が送られた。
 続いて、アラサツーバ桜寿会の古川知則会長、文化婦人会の今井君江会長、市長代理として出席した池田二郎市議が歓迎のことばを送った。
 その後、夕食会となり、婦人部の用意したご馳走を食べながら、地元の人々とゆったりと歓談した。隣町のビリグイから参加した鈴木久恵さん(59、二世)は「ノロエステのいいところを見てもらって、帰ってからみんなに伝えてほしい」と語っていた。
 午後十一時過ぎに一行はホテルに戻り、強行軍で疲れた身体を、ようやく横たえた。
(つづく、深沢正雪記者)

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