25年=交流協会生コロニアと共に=25期編2=連載(12)=同じ思い共有してくれる存在=記録映像作家の岡村さんにとって

2006年3月9日(木)

 交流協会には、OB以外にもさまざまな人たちが協力している。「正直なところ、僕の興味は交流協会そのものに対してよりも研修生一人ひとりに対してでしょうね」。記録映像作家・岡村淳さんはそう話す。去年九月に行われた中間研修にコメンテーターとして出席。それ以外にも、協会側の要請で研修生のために上映会を開催した。
 協会と関わり始めたのは二十期生時代(二〇〇〇年度)から。一九九七年に開催された立教大学ラテンアメリカ研究所主催の二日間にわたる上映会。交流協会、同研究所ともにOBである山口達郎事務局長(第四期生=一九八四年度)が来場していた。「それが協会との出会いです」。
 二年前の帰国報告会。ある研修生の言葉が忘れられない。ブラジルは自分を映す鏡。「しびれましたね。なるほど、そうだったんだと、僕自身が気づかせてもらった」。岡村さんのしていることは祖国日本にブラジルの感動を伝えること。「それが、お互いにより豊かに生きるきっかけになりうるという直感がある。同じ思いを共有してくれるだろう、そして僕とは別の方法でそれを伝えてくれるかもしれない若者が来てくれることがうれしいのです」。
 「大衆記録映像作家」として作品や表現を日本に発信している。「それが、いま時の若者たちにまるで伝わらないようであれば、根本的に自分の存在理由も考え直さなければならない」。交流協会生は岡村さんにとって貴重なモニターでもある。
 「彼らの出会うブラジル像に、僕が教えてもらう。これからさまざまな人生を歩んでいくのだろうけど、一人ひとりがつかんだブラジルが、人生のなかでいい隠し味になってくれればいいと願っています」。
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 日本学生海外移住連盟で大学生時代に渡伯した金原正幸さん(41)。二〇〇一年に事務局運営委員になる以前から交流協会との関わりがある。「もう自分の団体みたいな感じ」。一九八五年にだるま塾の森脇礼之主宰のもとで研修。当時から協会生との付き合いがあった。
 YKK・ド・ブラジルの駐在員として勤務していた時に十期生(一九九〇年度)の引受人となった。その後、二〇〇二年まで引き受けた。「中学校まではいろんな奴が集まるけど、高校、大学、社会に進むにつれて同じようなレベルの奴が集まってきてしまうもの」と言う金原さん。「交流協会は年も大学も関係ないからいろんな奴が集まる。それがおもしろい。そういう思想が好き」。
 第六期生(一九八六年度)として研修し、その後ブラジルで交流協会に携わっている神戸保さんとともに、YKK・ド・ブラジルを辞職したあと、カラオケ食堂「ポルケ・シン」も開業した。現在はアパレル関係の輸出コーディネーターとして事務所を構える。(つづく、南部サヤカ記者)

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