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移住花嫁の母=小南ミヨ子の生涯=連載(上)=370人送り出し大往生=女子研修センターと共に=「大きな影響与えた」

2006年4月1日(土)

 私財を投じて「国際女子研修センター」を設立、南米移民の青年に日本の花嫁を紹介すること三十余年――小南ミヨ子さん(享年96歳)は、移住者に捧げた半生を送った。送り出した数は約三百七十人にもなるという。その四十九日追悼法要が三月二十五日午前、サンパウロ市の仏心寺でもしめやかに執り行われ、ブラジルききょう会の花嫁移民をはじめJICA、文協関係者ら約三十人が出席した。この機会にその人となりと功績を振り返り、研修センターの果してきた役割と今後を聞いてみた。
 「ジャガイモの皮の剥き方が厚い、といってよく怒られました」と小南ミヨ子理事長のことを思い出しながら、寂しそうに笑うのはブラジルききょう会の会長、大島純子さん(62、神奈川県)=ミナス州カンブイ在住=だ。
 四十九日追悼法要には、同研修センターの事業に関係していたJICAサンパウロ支所の大嶺勉さん、文協の元職員の畑俊雄さんも出席。文協副会長の杓田美代子さんも「私もコチアの花嫁移民。コチア青年もたくさんセンターのお世話になっている」と感謝のことばを述べた。
 最初の派遣だったホーム一回生、大久保幸子さん(68、神奈川県)=カンピーナス在住=は、法要のあと感動的なエピソードを紹介した。大久保さんは三年ほど前に脳梗塞をわずらって、銀行の口座番号はおろかサインすら忘れてしまったという。
 「でも、日本を出発する時、小南さんの夫(東京大学農学部の小南清教授)から送られた詩(うた)だけは今も憶えている」と語り、その場で暗誦してみせ、居合わせた参列者から喝采をあびた。
 「背の君と パンパの野辺に いや栄えまし 千代に八千代に」(「背の君」は夫の尊称)
 パンパはアルゼンチン南部の草原のことで、小南夫妻が最初に送り出したのが亜国への花嫁だったため、「勘違いしたのでは」と大久保さんは笑う。
 大久保さんは夫妻の仲介により、手紙の文面と写真だけを便りに、四十四年前に渡伯して結婚した。その伴侶とは十二年間よりそって死別。「どれだけ先生にお世話になったことか」と霊前に手を合わせた。
 一九五四年、小南清教授がパリの国際細菌学会へ出席した時にミヨ子さんも同伴、七カ月の欧州旅行をした。ミヨ子さん自身も五十歳で論文を書き、博士号をとった医学博士だ。帰路に搭乗した「ろんどん丸」船長から、南米移住青年の結婚相手探しの困難さを聞き、同年「海外移住婦人ホーム」を創立した。
 移住青年に花嫁を送る一方で、夫妻は自宅を開放して毎月一回、南米を勉強する例会を開催しつづけた。JICAや外務省の現地生活経験のある人を呼び、講演をしてもらった。
 北山良子さん(71、東京)=タボン・ダ・セーラ在住=はホーム二回生で六四年渡伯。例会に参加した時のことを「お座敷が人でいっぱいだった。まだ食糧難の時代だったけど大きな大福がでたのよ」と懐かしそうに思い出す。
 例会が雑誌などで紹介されて参加者が増え、本格的な花嫁派遣事業につながっていった。その経緯は小南さんの著書『海外に飛び立つ花嫁たち』(講談社、八六年)に詳しい。ホームは七五年七月の三十回生まで続いた。七五年六月には外務省の協力で財団法人・国際女子研修センターに改組した。
 機関紙『ききょう会報』によれば、七九年十二月までに十三カ国に三百人の花嫁が渡った。うちブラジルは約二百人と大半を占め、次がアルゼンチンで四十四人、カナダ二十一人などだ。大島さんの推計では八〇年代には全部で七十人ぐらいが渡ったと見られ、総計三百七十人にも上る。
 大きな事業をなさって大往生を遂げられた――そう北山さんは回顧する。大島さんも「これだけたくさんの一世の花嫁が入ったことで、その子弟への日本語教育、レベルにも大きな影響を与えたのではないでしょうか」。小南さんの半世紀近い活動の成果を総括した。  (つづく)

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