移住花嫁の母=小南ミヨ子の生涯=連載(下)=どうなる会館の将来=創立者の死は問いかける

2006年4月4日(火)

 二十年ほど前から後続が途絶えている――といわれる花嫁派遣だが、実は一九九〇年ごろまで関連事業は実施されていた。バブルの絶頂期だ。
 「ききょう会報」によれば、九〇年九月一日から翌十月十四日まで行われた「移住希望者のための講習」にも二人が参加した。ただし、ききょう会の大島純子会長は「実際に渡航したかどうかは分からない」という。
 日本の景気が良くなって希望者が減ると同時に、女性が単身で外国へ渡ることが難しい時代でなくなった。「時の流れでしょうね」と北山さんはしみじみ語る。渡伯した二百人余のうち、「半分ぐらいは帰ってしまった」という。
 サンタカタリーナ州ラージェスから四十九日法要に駆けつけた佐藤和江さん(64、千葉県)はホーム十八回生。「娘を日本の幼稚園に六カ月やったんです。あのとき小南先生にすごく可愛がってもらった」と感謝する。
 花嫁送り出しが減る一方、新事業が始められた。南米の日系子女(女子のみ)を日本で研修させる取組みだ。八七年一月からはじまった「在外日系子女本邦研修会」は、ききょう会OBが引率する形で、十三~十五歳の子どもを毎回十五人、一カ月間ほど神奈川県茅ヶ崎市の松浪中学に体験入学させた。計二百六十人が参加。〇〇年までOBが引率したが、その後も数年間、引率ぬきで続いた。
 小南さんは自分の身なりにもあまり頓着せず、事業に専念した人だった。大島さんは「先生は外務省の中でもチビた下駄でカタカタ歩いていた」と懐かしそうに思い出す。ミヨ子さんは九八年十月に階段から転落して脊椎を損傷、寝たきりの状態になった。
 昨年四月、大島さんが小南さんを自宅にお見舞いにいったが、「門前払いでした」となげく。転落事故のあとから、誰が訪ねていっても家人にさえぎられ、会わせてもらえない状態が長いこと続いていた。
 事故の後、ブラジルとも縁の深かった理事ら四人が、センター運営に関して新理事と対立して辞任。ききょう会と同センターは意思疎通さえ欠くようになったという。それでも、同センターは小南理事長の名前で〇四年まで日系子女本邦研修(女子のみ)を続けていた。
 JR東海道線辻堂駅から徒歩十五分という好立地にある国際女子研修センター会館(神奈川県茅ヶ崎市)は、その頃からあまり使用されず、電話しても誰も出ない状態が続いている、と大島さんはいう。
 〇二年十月、ブラジルききょう会は日本の外務省に対して、「国際女子研修センターの機能が、従来どおり生かされるようにしてほしい」との要望を行ったが事態は改善されず、こう着状態を続けてきた。
 大島さんは「実は、ききょう会から付き添い婦などデカセギに行ってる人がかなり多いんです。この人たちが東京に行った時に使わせてもらえればと思って、JICAや外務省を通じて何回かお願いしているんですが・・・」と表情を曇らせる。本邦研修生OBが留学した際の交流の場にもしたいという。
 「今回、先生も亡くなってしまって、このままではあの会館がどうなるのか心配です。いろんな資料や昔の写真のいっぱい入ったアルバムが捨てられるようなことになったら、あまりに哀しい」と嘆く。
 創立者、小南理事長の残した国際女子研修センターとその会館は今後どうなるのか――。花嫁送り出しも子女研修もなくなり、ききょう会とのつながりすらもなくなった今、その存在が改めて問われている。
       (おわり)

■移住花嫁の母=小南ミヨ子の生涯=連載(上)=370人送り出し大往生=女子研修センターと共に=「大きな影響与えた」