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パラグアイに根付いて70年=ラ・コルメナ=日本移民発祥の地=記念行事で節目祝う

2006年5月20日(土)

 パラグアイのラ・コルメナ移住地で十五日、同市の創立と入植七十周年を祝う記念行事が挙行された。戦前で唯一の移住地として、パラグアイ日本移民の道を切り開いたラ・コルメナ。開拓初期の苦難、戦中の困難を乗り越え、ここから幾多の人材が同国社会に巣立って行った。パラグアイ独立記念日にあたるこの日、式典には周辺各国、日本からも慶祝団が参集。七十年のあゆみに思いをはせ、未来への決意を新たにした。
 「道もなく、牛車に揺られて来た。木を一本ずつ倒しての開拓の苦労はどこも同じだ」。指導移民の父に連れられてブラジルから移動して来た飯原善広さん(90)は入植当時を振り返る。今では三十人の孫や曾孫に囲まれている好好爺だ。
 三六年にはじまったパラグアイへの日本人移住。その二年前にブラジルで日本移民を制限する「移民二分制限法」が成立したことが、同国への計画移住につながった。
 ブラジル拓殖組合(ブラ拓)の宮坂国人専務(当時)が調査団を派遣。報告を受け三六年五月十五日、パラグアイ拓殖組合(パラ拓)のスタッフが同地に入植する。同六月にブラジルからの指導移民が、そして八月、日本から最初の計画移民が入植した。
 ミツバチの巣箱を意味する「ラ・コルメナ」。以前は別の名前を持つ村の一集落だった。当時の人口は日本人三百六人、先住者五百十四人と記録されている。
 度重なるバッタの襲来に苦しんだ初期移民の時代。敵性国民とされた第二次大戦中は後続移民も途絶え、同移住地がパラグアイ全土の日本人収容所となるなど、多くの困難を乗り越え、歴史を刻んできた。
 現在の人口は五千三百人。日系は三百五十人と、全体の数パーセントに過ぎないが存在と貢献度は大きい。三軍総司令官のホセ・ケイ・カナザワ将軍や同国石油公社ペトロパールのアレハンドロ・マコト・タカハシ総裁など、ここからパラグアイ社会に多くの人材を輩出している。
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 式典当日は雲ひとつない〝日本晴〟。市民全員が集まったかのような熱気あふれる一日だった。
 オジリオ・カバジェロ市長、飯野建郎特命全権大使、陸海空三軍将官、斎藤寛志JICAパラグアイ事務所長をはじめ多数の来賓が出席。アルゼンチン、ブラジル、ウルグアイ、日本からも慶祝者がはせ参じた。パラグアイ日本人会連合会の小田俊春会長は、祝辞の中で「移住地の子供たちに不死鳥のような働きを期待する」と述べた。
 会場では、初期移住当時の先住者の中で生存している長老二名(女性九一歳、男性八八歳)に対し、千葉玄治郎ラ・コルメナ・パラグアイ日本文化協会会長から日系社会の感謝の気持ちをこめた表彰状を伝達。
 ブラ拓派遣の技師として移住地発掘のために奔走、パ国日本人移民の祖と仰がれた故笠松尚一氏(元日本人会連合会長)の胸像が飯野大使、日本人会会長、笠松家関係者によって除幕された。生涯をかけて日系社会を支えた故アグスチーナ・ミランダ女史(十三日付け本紙既報)の等身大銅像が市内中心部の公園に建立された。
 市内の全校生徒と三軍音楽隊による記念パレード。改築された日本語学校校舎の完成式も行われ、それに合わせて児童生徒と父母らの作文、習字、絵などが入ったタイムカプセルが学校の庭に埋められた。移住百周年を迎える二〇三六年に目覚めることになっている。
 父の代から五代続いて男の長子に恵まれているという三井波夫さん(八四)は笑顔で「感無量だ」の一言。五代目のコルメネンセが今年の二月に生まれたという。
 七十年の時を経て、コルメナ日系社会も三世、四世の時代に入っている。この日はその子供たちが劇「ラ・コルメナ70年のあゆみ」をけなげに演じて会場に感動と感涙をもたらした。
 当日顕彰された先駆移住者は以下の通り(敬称略)。【功労者】三井波夫(長野)森谷不二男(静岡)関実五郎(群馬)【高齢者】根岸はな(群馬)飯原善広(北海道)関勇寿(群馬)岡田米(岡山)三井波夫、森谷不二男、林しげ(群馬)三井ひろえ(長野)後藤喜代江(山形)【初年度入植者】飯原善広、森谷不二男、関勇寿、根岸はな、関年子(群馬)後藤喜代江、関淳子(群馬)大江高夫(山形)金沢とよ(福島)関実五郎、山崎富美子(北海道)。
(渡辺忠さん通信)

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