移民政策=時代に対応、修正へ=連載(3)=戦後、外国人導入に消極的=受け入れ後弊害多発

2006年7月6日(木)

 戦後の移民政策を平たくいえばこうだ。
 〈外国人労働者は基本的に必要としない。外国から移民受け入れの要請があった時には、連邦直轄区をあてがう〉
 つまり、移民導入には消極的だった。(1)受け入れ態勢の不備(2)移民送り出し機関とブラジル当局者とのコミュニケーション不足といった弊害が発生した。
 〈住む家が用意され、道路も整備されていると聞いて渡ってきたのに、実際には何もなかった〉
 戦後すぐのアマゾン移民を取材すると、日本で聞かされた内容と現実との大きなずれを指摘。取材を拒否する人もいる。移住地によっては悲劇も生まれた。
 「故・君塚慎大使は戦後初の民間人大使だった。戦前にブラジルに住んでおり、アマゾンの状況も知っていた。だから、外国から移民が来たければ、それでも構わない。けど、アフター・ケアになると……。」。
 同大使の私設秘書を務めたことのある、脇坂勝則さん(人文研顧問)の口ぶりは重い。
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 〃期待はずれ〃は、日系人ばかりではない。イタリア移民が五一年に、ペドリーニャス耕地(パラナ州アシスから六十キロ)に入った。
 将来の生活に希望が持てないといって、脱耕者が続出。サンパウロの移民収容所で暴動も起こった。
 サンパウロ市のセントロで浮浪者同然の生活を送る姿が新聞紙上で報道されたため、外交問題に発展した。
 増田秀一氏(俳号=恆河、パウリスタ新聞元記者)が、『戦後ブラジルにきた欧州移民』でその経緯などを扱っている。責任の所在についての論争に触れているのが結構面白い。
 ペドリーニャス移住地は、イタリアとブラジルの移住協定に基づいて創設されたものの一つ。
 戦時凍結資産を土台に、ブラジル・イタリア移民殖民会社が創立され、移民の送り出しを始めた。
 脱耕が深刻化するのにしたがって、移民会社、イタリア総領事館、移民収容所(サンパウロ農務局)による折衝の場が持たれた。
 〈問題の解決は、イタリア政府関係当局が行うべきである。ブラジル・イタリア移植民会社の大部分の株は、イタリア政府が所有している関係からも当然である〉
 ブラジル側は、イタリアに責任があると判断。外交ルートで、(1)本国での宣伝や移住者選択の事務の改善(2)最小限三カ年以内に解約、帰国する場合の保証金の積み立てなどを要請すべき、との意見が提出されている。
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 外国移民への関心が減退していくのは、三〇年代から。ヨーロッパで戦争ムードが高まって、輸入が衰退。ナチスやファシズムの政権下で、ドイツやイタリアからの移民送り出しが鈍化した。
 これに対して、ブラジル政府は輸入代替工業化を振興。貧しい北東伯移民がサンパウロなど大都市に吸収されていった。
 戦後の移民政策では、基本的にこの路線が維持され、国内労働者の保護が重視された。外国人がシャット・アウトされたわけではない。 
 移民研究者のフランシスコ・アラゴン・アゼベード氏の論文によれば、当時の識者たちは戦災難民に注目。「第二次世界大戦で生まれた、難民の中にはヨーロッパの進んだ技術を持っている人間がいる」と素質を評価している。
 難民として四七年~四九年に、約二万三千人がブラジルに渡った。 
 ブラジルは戦後も優生学が幅を利かせていた。移民を入れるなら、言語・文化体系が似ている欧州系が好まれた。〃同化〃などが問題され、日本人は敬遠されがちだった。
 しかし戦後に来た外国人のトップは、日本人。同氏は「驚くべきことだ」と論じている。 
(つづく、古杉征己記者)

■移民政策=時代に対応、修正へ=連載(1)=密入国者あとを絶たず=国境警備は混沌

■移民政策=時代に対応、修正へ=連載(2)=国内労働者の保護優先=たとえ政権変わっても