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サン・セバスチョン=「日本文化」が珍しい町で日本祭り=七夕飾り、太鼓、餅、寿司=初めて、〃人集め〃ねらう=いい感じ、手応え

2006年10月14日付け

 サンパウロ州北部海岸地方のサン・セバスチョン市で、七夕を取り入れた日本祭り「第一回サン・セバスチョン祭り」が、六日から八日にかけて行われた。三日間での来場者数は約五千人。初めて太鼓を見たという多くの観客らは物珍しそうに餅や寿司の前に列を作り、静かな街に日本の伝統音楽が流れていた。「一回目にしてはいい感じでしょう」と、訪れた関係者らは、まずまずの手応えを感じていた。同市市役所主催、アトランチコ文化スポーツ協会(通称サン・セバスチョン日本人会=大沼真樹会長)、ブラジル宮城県人会(中沢宏一会長)後援。
 人口約七万五千人、南北約百二十キロの細長い同市ではこれまで、日本文化を紹介するイベントはもちろんのこと、イタリア系やドイツ系などの祭りも行われたことがないという(市文化観光局長)。
 イーリャ・ベーラを見渡せる海岸沿いの道路を封鎖し、市立博物館の横に舞台を設置。七匹の鯉のぼりが風になびく奥に、市が用意した大きなテントが並び、数々のバラッカが軒を連ねた。
 テントの天井からは色とりどりの七夕飾りが吊るされ、天ぷら、焼きそば、寿司といった日本定番の料理が並び、博物館内では百人一首、書道、折り紙、日本の占星学などが紹介されていた。七日に同地日本人会婦人部が、八日に宮城県人会が餅つきを行った。
 「みなさん、珍しいのよね」と、折り紙講習の講師として参加した宇野妙子シニアボランティア。折り紙コーナーから人が引くことはなかったという。
 大沼会長によれば、サン・セバスチョンに日本人が入植したのは戦後。終戦の混乱を逃れてきた人が多かったという。六六年に日本人会が創立され、七〇年ごろに会館ができた。
 しかし、七〇年代終わりには日本語学校がなくなり、八〇年代のデカセギブームで若者が街を出て、日系の人数は減った。
 現在の日本人会は約三十家族。そのうち、活動に参加するのは十人足らず。大沼会長は「このままでは会が〃つぶれる〃と思い、五十周年を機にサンパウロから太鼓などを呼びました」。
 記念式典に参加したJ・マノエル・ボンス・ガルシア同市長が、大沼会長に日本祭りの開催を提案。「小さくてもいいので、今年中にやってみてほしい」という市の要望があり、準備期間は短かったが、急遽開催までこぎつけた。
 「うちの会は小さいし、経験もないので市が主催して、宮城県人会に助けてもらいました」。
 七日の開会式には、ガルシア市長、森田聡在サンパウロ日本総領事館領事が出席。八日に会場を訪れたジュリオ・C・E・ブジ同市文化観光局長は、「これを始まりに、三、四年かけて大きくしていければいい」と前向きな姿勢を見せた。
 宮城県人会からは、泊まりで十人以上が参加。中沢会長は「日本人がたくさんいるところはそれでいいけど、少ないところは単独では動きにくい。それに手を差し伸べ、協力できるような態勢をサンパウロで築いていかなければいけないと思う」。
 「どうやって日本人会に人を集めるのか」と、自問する大沼会長。「ここの日系人で日本語がわかるのは僅か。まず、ポルトガル語で折り紙や俳句について広報して、日本文化を知ってもらうことから始まる」。
 「祭りをきっかけに日本人会に来てない人に気持ちを出してもらえればね。これからが勉強です」と、大沼会長は力強く語った。

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