県連「ふるさと巡り」=パラグアイ・アルゼンチン・ブラジル=3カ国走破=連載(5)=ラパス=苦労続きの入植当初=大豆と小麦で再起図る

2006年10月19日付け

 旅も三日目。九月二十五日。ホテルで朝食を済ませ、午前八時出発。一行はイエズス会教化部落の「トリニダード遺跡」を観光した後、ラパス移住地へ向かった。
 同移住地はアルゼンチンとの国境の町、エンカルナシオンから北東に約四十キロ離れた場所にある。
 途中バスから見えた景色は地平線のかなたまで広がる小麦畑。のんびりと草をほおばる牛や馬。その間にまばらに家がある。同国が農業国であることを実感する風景が続いた。
 正午過ぎ、同移住地の墓地に到着した。先没者の慰霊法要をおこなうためだ。広島県人会の創立二十五周年(八五年)を記念してつくられた拓魂碑には、先没者二百九十八人の魂が祀られている。
 読経と鐘の音、小鳥のさえずりが静かに響き渡るなか、一人ひとりが焼香をあげ、故人の冥福を祈る。
 「それぞれのご先祖様も喜んでいることでしょう。子孫の安全をお守りくださいと祈りました」。最後までじっと目を閉じ、手をあわせていた荒井寿恵美さん(73)は、こう胸の内を語った。「もちろん旅の無事もお願いしましたよ」。
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 法要を終え、一行はラパス・イタプア国際文化会館での歓迎昼食会へ。この会館は在パ日本大使館や在エンカルナシオン領事館の指導のもと、日本万博記念協会の協力を得て、二〇〇二年二月に完成した。建物の中には大きな室内運動場があり、そこが今回の会場となった。
 ラパス日本人会は一九七一年に発足。それまで同地にはフジ、ラパス、サンタロサの三地区があり、それぞれが自治体を組織していたが、七一年にこれらが統合してフラム自治体となった。これが現在のラパス日本人会の始まりだ。
 人口三千人のまちに日系人は約六百五十人。その内、広島や高知県の出身者が多いのは、五〇年代に、それぞれの県で「分村移住」の形で、同地への集団移住が実施されたからだ。
 「今日もほんとは小麦の収穫の日だけど、特別にお客さんが来てくれたから」。小松光広会長は一行の来訪を喜びながら、入植当時の話をしてくれた。
 「あの時はいくらやっても赤字、赤字でね。お茶、とうもろこし、油、何をやっても長続きはしなかったよ」。赤土の大地。地味肥えた土地は、豊かな作物を実らせた。「とにかく土地はよかったよ。でもね、せっかく良いのができても売るところがなくてね」。
 入植当時の写真をみると、生い茂る原生林を前に粗末な小屋が並ぶ。自給自足。医者もいない。「ブラジルでもそうだったと思いますけど、こちらも苦労といえば苦労でしたよ」。
 五五年から六〇年にかけて三百四十二家族、二千五百五十一人が入植。しかし、厳しい生活環境や農業不振で、次第に他の町へ移るものが出てきた。残った人がその人の農地を買い取り、大農場を形成していった。
 交通網も次第に整備され、大都市へのアクセスもよくなったころ、大豆、小麦を植えてみた。これが意外にもうまくいった。
 農業組合の加盟者がしめる生産面積は一万二千ヘクタール。現在は機械化も進み、小麦は全体で年間平均三万トンを生産するまでに成長した。
 「でもね。今年は大きな霜が八月に三回、九月に一回ときて」と残念そうに続ける。今年の小麦の収穫量は例年の六割ほどまでに落ちこむ見込みで、これから植える大豆も、昨年はかんばつが続いて七~八割減の大不作だった。「これでは正直赤字ですよ」。
 そんな話をしていると、同席の参加者が「お米がおいしい」と口を揃えた。同地の自慢は米作り。日本から持ってきた品種「はつしも」などを用いて、手で植え、手で刈り、手で干すという徹底ぶりだ。「機械でやると味が落ちるものでね」と小松会長は笑顔を戻した。
 お腹も一杯になったころ、会場全体で「ふるさと」を大熱唱。梅酒や味噌などを土産に買い、午後三時すぎ、同地をあとにした。
 (池田泰久記者、つづく)

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