2日起きて2日寝る=皇太子殿下ご夫妻接待も=モジ市コクエラ区=橋田光代さん=「どこも悪いとこないし、今が一番たのしい」

2007年1月1日付け

 「貧乏、貧乏で…。でも今はここがあるし、困ったことはない」。モジ市コクエラ地区で暮らす橋田光代さん(宮崎県出身)は、昔のことを振り返った。
 十年ほど前、八十九歳のときに、二度目となる背骨の骨折をしてから認知症(ボケ)の症状がではじめたという。
 光代さんは、足を怪我してからここ四、五年で、車椅子の生活になった。驚くことに、二日間ずっと起き続けては、一日から二日間寝続けるというサイクルで日々を過ごしている。
 「話すのは日本でのことばかりですよ」と、長男の拓士さん(71)。「宮崎では洋服屋をしてました。温泉が近くにあってお父さんがよく行ってて」と光代さんの記憶がよみがえる。一九三六年、光代さんは夫と子供三人と、構成家族の七人で来伯した。
 拓士さんによれば、パウリスタ線沿いでコーヒーコロノを三年。その後、二、三カ所を転々とし、サンターナ・アナスタシアで綿作りをしているうちに戦争が始まった。
 「日本の船が迎えに来るっていってね、奥地からサンパウロ市郊外に引っ越したんだ。もたもたしていたら置いていかれるぞって。でも、待てど暮らせど船は来なかった」。
 畑もすべてを捨て、カバン一つで街へ出てしまった。途方にくれた一家は知り合いに呼ばれ、コクエラで養鶏を始めた。
 ジャカレイへ出たが百姓に失敗。コクエラで養鶏をしてから、またジャカレイで百姓と養鶏をするが失敗。三回目にしてコクエラに戻った。
 「破産一歩手前までなったり、持ち返したり。ブラジリアで養鶏をしたこともある」と拓士さんは話した。
 光代さんが記憶しているのは「一万羽の鳥を飼っていた」ことと、「貧乏、貧乏」だったこと。
 拓士さんは「母は苦労してますよ。日本から来て食べるものなんかなくて。肉の塩漬けや腸詰めなんかは臭くて食べられなかった」と振り返る。
 移住初期は朝早く弁当を作り、畑で食べた。当時は、弁当箱の代わりに陶器の便器を買って使っていた日本人がよくいたという。「大きさもよくて、蓋もあってちょうどよかったんだ」。しかし、ブラジル人には笑われた、と苦笑する。
 以前は「元気なばあさんだった」として知られ、お寺、生長の家、道徳科学の集まり、婦人会、ゲートボールと毎日家にいることのないくらい出歩いていた。最近では一日に三、四回、車椅子で外に出るくらいだ。
 一九七八年に皇太子殿下ご夫妻(現両陛下)がコクエラをご訪問なされたときには、光代さんが婦人部長をしていた。日記をつける習慣があり、子供六人、孫「たくさん」、曾孫七人に囲まれて、活発な毎日だったそうだ。
 九〇年ごろが一度目で、九六年に二度目、背骨を骨折した光代さん。体に異常は見当たらなかったが、少しずつボケが進んでいるという。
 「昭和十年に出て来ましたが、ブラジル語は覚えてません」。そして、「どこも悪いとこないし、今が一番たのしい」と光代さんは話す。
 「九十…いくつになったっけ」と尋ね、百歳だと言われると、「ありがとうございます」と手を合わせてから、「百歳万歳~、百歳万歳~」とバンザイ。眼鏡をかけて、総領事館から渡された百歳表彰の賞状をはっきりと読み上げていた。