渡って来て48年=59年4月「あめりか丸」同船者ら=歳月経て、懐しさ更に濃く

2007年5月4日付け

 一九五九年四月二十三日サントス港着「あめりか丸」の同船者たちが一年に一度顔を合わせる「渡伯四十八周年記念同船者会」(第三十回)が、四月二十九日午前十時から、宮城県人会館屋上で開催された。
 同船は五九年三月二日に神戸港を出港し、四月九日にベレン、四月二十三日にサントスへ到着した。
 この日の参加者は総勢五十人。一年ぶりに会った同船者たちは、嬉しさいっぱい、抱きあう姿や、肩を並べて、四十八年前に日本を離れるときの気持ちを懐かしく語りあっていた。
 来年着伯四十九周年を迎える同船者会は、ブラジルで生活し始めた年数は違うが、移民百周年に何か役にたてれば、と計画をしている。
 今回、初めて参加した大野(旧姓藤井)寿代さんは「参加するときに、知っている人がいないのではないか不安があったが、来て話してみると、あの頃一緒にに乗っていた人たちのことを思い出した。参加できてとても良かった」とにっこり。
 大野さんは、一昨年、同会のことを扱った邦字新聞をみて、参加したいと思ったが、昨年は参加できなかった。社交ダンス教室に通っていて、あめりか丸の話をすると、坂東博之同会世話人の夫人が同じダンス仲間だったので、その話をすると、是非参加してほしい、と言われた。こんな巡りあわせで、今年やっと参加が実現した。
 大野さんは、東京出身。離日当時中学二年生で、一旦神戸に同船者が集合し、家族四人であめりか丸に乗船した。父親からブラジルに移住すると聞いたときに、大泣きしたという。
当時、石原裕次郎が大人気だった頃で、毎日テレビや雑誌を観るのが楽しみ。「今が一番楽しい時期なのに日本を離れるのは嫌だ」と言った。しかし、父親が大野さんの学校の校長に移住を言い、校長に渡航を説得された。その当時、校長の言うことには絶対に服従だったので、渋々ながらブラジル行きを決めた。
 あめりか丸出航日、嫌々ながら乗船すると、石原裕次郎似の人が乗っていて、気分は一転、気持ちがはずみ、毎日が楽しくなっていった。結局、サントス港に到着するまで、その人を目で追っていた。
 大野さん家族は、サントスから別の船に乗り換えてブエノスアイレスに行き、さらに汽車で二日間かけて、パラグアイに入った。全くスペイン語が解らず毎日苦しかったが、日々を重ねるうちに話せるようになった。
 二十一歳の頃、まだ勉強したかったが、親が「今結婚しないと誰も嫁にもらってくれない」とすすめ、強引にお見合いをさせられ、日本人と結婚した。
 その後、三人の子どもを育てた。大野さんの夫がサンパウロに移住しようと言い出し、大野さんは「今の生活が安定してるのに、なんでサンパウロに行くのか」と大反対したが、結局、十三年住んだパラグアイからサンパウロに渋々来た。しかし、来てみると、日本の物が何でも揃っていてびっくりした。楽しくなり、もう三十三年過ぎた今では、来て良かった、と話している。
 坂東博之代表世話人は「毎年、この会を楽しみにして待っていた。これだけ大勢の人に参加していただき、胸がいっぱいで嬉しい。健康第一で来年の会も盛大にしたい」と満足した様子で語った。
メンバーの一人コチア青年連絡協議会の山下治会長は「今年もこの会が開催できて嬉しい。毎年続いているのは、みなさんのおかげ、心から感謝している」しみじみ感想を述べた。