ブラジル進出50年を祝う=クラボウ=南伯日系企業のパイオニア=本社社長迎え記念パーティー=「50年は新たなスタート」

2007年5月5日付け

 日本の繊維メーカー「クラボウ(倉敷紡績)」が今年、ブラジル進出五十周年を迎えた。日系企業として戦後はじめて南リオ・グランデ州に進出した同社。三日サンパウロ市で開かれた祝賀パーティーには日本のクラボウから丹羽ひろし(「日」の字の下に「大」)代表取締役社長も出席し、半世紀の歩みを祝福した。
 一八八八年、「倉敷紡績所」として岡山県倉敷市で設立されたクラボウ。ブラジルへの進出は一九五七年八月、「ラフィシニオ・クラシキ・ド・ブラジル」設立にはじまる。同社は南リオグランデ州サプカイア・ド・スールに工場を建設。日系企業の同州進出としては、戦後はじめてのことだった。
 進出当初は羊毛を使った毛糸製品が主だったが、その後、七二年にパラナ州ポンタ・グロッサに綿糸製造を目的とした「コトフィニオ・クラシキ・ド・ブラジル」を設立。同二社は二〇〇六年に合併、「クラシキ・ド・ブラジル・テキスタイル(KURASHIKI DO BRASIL TEXTIL LTDA、須賀治社長、本社サンパウロ市)」として新たなスタートを切った。
 現在では毛糸、綿を中心にカーペットやソファーなどの室内装飾生地のほか、ヨットのクッション素材等の防水性繊維など、国内から南北アメリカ、欧州で幅広く事業を展開。
 〇四年には経常利益一千万レアルを突破、昨年は通貨のレアル以降以来の最高益を記録している。
 記念パーティーは三日午後七時過ぎから、サンパウロ市内のホテルで開かれた。節目の祝宴に合わせ、日本のクラボウから丹羽ひろし(「日」の字の下に「大」)代表取締役社長、松井一雄同社企画室企画課長が来伯。
 在聖総領事館の丸橋次郎首席領事や、同社工場のあるパラナ日伯商工会議所の上野アントニオ会頭、田中信ブラジル日本商工会議所会頭などが訪れたほか、かつて同社で働いたOBの姿も多数見られた。
 丹羽社長は、同社五十年の歩みを「ドルショックや預金凍結、ハイパーインフレなど、幾多の困難を伴うものだった」と振り返るとともに、中国製品の流入など「繊維業界を取り巻く環境が厳しさを増す中、今日まで発展してきたことは、先輩、従業員が叡智を結集して困難を乗り越えてきた結果だと思う」と称賛。「クラシキもブラジル進出日系企業の一員として、ブラジルとともに発展していけるよう努力していきたい」と将来への期待を表した。
 須賀社長もまた、「五十周年は新たなスタートの時」と力を込め「これからも社会に存在を認められる企業であり続けたい」と決意を述べた。
 丸橋首席領事は、二十年以上前のポルト・アレグレ総領事館勤務時代に同社工場を訪問した思い出を紹介。上野パラナ会議所会頭は、同社がパラナ州の綿加工業に果した功績をたたえた。
 田中会頭の発声で乾杯後は食事を囲んで懇談。楽響座による和太鼓演奏やサンバショーも披露され、会場はにぎわいを見せていた。
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 「五十年、よく生き延びてきたという気持です」。〇五年に退職するまで四十四年十一カ月同社で働いた西銘光男さん(75)は、にぎわう会場で感慨をあらわす。
 宴半ばのあいさつでは、六〇年当時、本社からの現物出資として日本で購入した機械をブラジルに運ぶ「無為替輸入」が、時のジャニオ・クアドロス大統領に一旦禁止されながら、会社が直訴して再び許可を得たエピソードを紹介、「その後も軍政やインフレ、預金封鎖など、毎日が文字通りの戦争だった」と半世紀の歩みを振り返っていた。
 「私のサラリーマンとしての生活はクラボウとともにありました」と話す西銘さん。「大切なのは、マーケットに合わせた品物を作ること。作ったものを売るのではなく、売れるものを作る。そうすればもっと良くなると思います」と〃古巣〃へエールを送った。