老ク連「開拓の記憶」=〃ふるさとの旅〃へ=連載(1)=〃移民の父〃の墓参り=焼香「なんだか寂しいね」

2007年5月19日付け

 〃ふるさと巡り〃をするのは、県連だけでない。ブラジル日系老人クラブ連合会(重岡康人会長)は、四月二十七日から五月一日にかけて、「支部視察・交流」として、カフェランジア、プロミッソン、リンス、ドラセーナ、ペレイラ・バレット、ミランドポリス(弓場農場)の六移住地をめぐる〃ふるさとの旅〃へ出掛けた。広がるとうもろこし畑を経て、「移民の父」の碑に焼香し、遠方のドラセーナ明朗会との交流で歓談した。チエテのダムに沈んだ移住地に思いを馳せ、弓場のバレエを堪能。各移住地の出身者を乗せ、平均年齢七十五歳の一行四十人は、過去の生活を振り返りつつ、四泊五日の旅を満喫した。
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 「平成十八年第三十九回年忘れにっぽんの歌~!今年もいよいよ終わりが近くなり…」。早朝六時。バスに設置された小型画面では、ビデオに収められた昨年末の歌謡祭が放送されている。両側の車窓は一面のさとうきび畑だ――。
 四月二十七日夜、リベルダーデ区を出発した老ク連一行のバスは、翌朝、順調にカフェランジアの平野植民地跡に到着した。
 「ようこそお越しくださいました。疲れたでしょう」。街外れにある平安山光明寺では、仏教婦人会と、平野植民地、隣のタンガラ植民地の婦人ら約十人が朝食を用意して出迎えてくれた。
 植民地の歴史は古い。仏前に集まった一行に矢野正勝西本願寺総代が説明する。「一九一五年八月三日、平野運平の指導で、ここに八十二家族が入りました」。
 生活は悲惨さを極め、川の傍で米作をしたために、六十人以上がマラリアに罹り他界。その上、旱魃とバッタの被害で農産物は不作に終わり、二重の悲劇を負った。
 「一九二六年、このお寺はブラジルで最初に建てられました。今の(石造りの)床は一九五〇年のもので、昔は板張りだったんです」。寺の横には、二八年の入植記念祭に建立された鎮魂碑と、九三年に造られた平野運平の胸像がたつ。
 現在、植民地に暮らすのは十二家族。雑作、カフェから、今はほとんどがさとうきび栽培に移っている。
 「一昨年、無事に九十年祭を迎えました。日本からNHKの取材が来たんですよ」と、森部長(もりべひさし)平野植民地会長(69)は笑顔を見せつつ、「でも実際に動くのは五、六家族。日本人会と仏教会が一緒にお寺を守ってますけど一人二役。辛いですよ」。
 日本人会では移民祭、母の日、忘年会と平野運平の命日を期して平野祭を行い、仏教会には近隣のタンガラ、カフェランジア、グァランタンからも人が集まる。矢野さんは「九十年祭ののち二人の古い方を亡くしました。残されたのは若い人ばかりで昔のことがわからないんですよ」と、歴史深い寺を見上げた。
 一行は、朝食後、現地の人の車に乗りあい、平野運平の墓参りに出かけた。畑を越え、光明寺から四キロほどいった、ただっ広いところに四角い塀で囲まれた墓地があった。
 昔はところ狭しと墓石が並んでいただろう墓地は、現在は閑散としている。「なんか寂しいね」。参加者らは、強い風が吹く中一人ずつ焼香し、墓前で手を合わせた。(つづく、稲垣英希子記者)