〃世紀の旅行家〃=岡田芳太郎の謎=連載(下)=日記が伝える30年の彷徨=死の五日前、謎の〝絶筆〟=小松さん「家族に遺品渡したい」

2007年5月19日付け

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 ブラジルに最初の日本移民船、笠戸丸が到着した一九〇八年、岡田はすでに南米各地を旅行している。
 同年三月の日記によれば、―首府ASUNCIONに上陸した。之のパラグアイ共和国に日本人として足跡を残したのは私が最初では―としており、六月にはボリビアに入国。
 その後、十二年九月には再度ボリビアに入り、リベラルタを訪れ、出合った邦人の名前、日本の住所などを書き留めている。
 ブラジル移民史料館が所蔵する岡田の日記は八冊。日々雑記のようなものから、各地の地理、農産物の生産量なども書かれている。
 ウルグアイの国内情報が多岐かつ詳細に書き込まれている一冊もあり、一旅行者の興味の範疇を超える内容といえるだろう。
 ペドロ・バーロス、イタリリ、アレクリンなどの日系植民地も訪れ、日本人学校、日本人会の役員の名前を記しているものもあり、各地で移民たちと接触していたようだ。
 岡田が亡くなったのは、三十三年二月七日。同月二日が最後の日記と見られるが、乱れた文面から体調不良が読み取れる。
 ―フェリタ・ブラボ(一種の腫物)之も之も矢張りジュキ線一帯に亘って**して居る主に脚部を犯されるものである。酷い時は脚部から流出す膿は恰も瀧のやうだ(中略)少々悪くとも是非**は出発する云う意気込みで**支度を支えた(中略)プライニアから終点ジュキア迄*******からレジストロへ河蒸機で下り(中略)一応診断して貰った方が得策であらうと考えたからである―
 日記は泊まっているホテルの食事が「食欲の乏しい病人には無理である」と続き、―三四日前**事務所から出荷の命令電報が来た。大*氏カマラダを新たに雇ふて四百―で終わっている。(日記は原文ママ、****は解読不能の文字数)
 病気で医者の診療を急ぐ旅人の岡田に命令電報とは何のことだろうか。精神に何らかの変調をきたしたのか、謎の絶筆と言うほかない。 
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 日伯新聞三三年二月十六日付けによると、岡田が旅行に出た理由は次のようなものであったという。
―氏は広島懸生れ、明治三十四年(一九〇一年)七月苦学を志して布哇(ハワイ)に渡り次いで加州(カリフォルニア)に入ったが、時あたかも日露戦争当時でアメリカ人の侮日甚だしく為に東部に出たが最初に受けた民族的屈辱に対する義憤抑ふるに由なく、遂に学業を抛ち一切の物質欲を去って世界徒歩旅行に志した―()は記者注
 エミアさんが保管している岡田の遺品のなかに岡田の名刺があるのだが、大阪市の住所が記されている。岡田は本当に広島県出身だったのだろうか。
 県知事が外務省に旅券を願い出る下付表(広島県立文書館所蔵)によると、布哇に渡ったとある一九〇一年(明治三四)年を挟んだ明治二十八年から三十五年のものに、岡田の名前はない。
 渡米時に本籍が変わっていたか、他人の名前を使うケースもあったという〃密航〃ハワイ自由移民であったのか。
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 ―遺品は海興の中野氏立会の上、夫々遺言通りに処分し、旅券其他の書類は領事館に、三十八ヶ国の金貨は領事館を介して上野博物館に送って貰ひ、私に遺された品物や各国紙幣(一八カ国)は既に陳列棚を設けて記念として納めておくことにしました。墓石も御影石を選び碑文は内山総領事が引き受けてくれました。未だサントスの潮旅館にカバン其他があるので、これ丈は未だ片付いていませんが先づ大体を終えやっと重荷が下りた気がします。レヂストロへ来たら記念品を見て行って下さい、云々―
(三三年四月二十九日付け日伯新聞)
 レジストロ在住の村澤ペドロさん(63)は、小松旅館に展示されていた岡田の遺品を「子供の頃、よく見ていた」と懐かしがる。しかし、岡田の存在、そして同胞に対し、最高の礼を以って接したコロニアの温情を知る人は地元でも少ない。
 「『岡田さんを自分の家族だと思って、墓を守りなさい』とよく言っていました」。エミアさんは父敬一郎さんの言葉を振り返る。
 後年、展示されていた岡田の服や小刀を墓に収めたエリザベッチさんは、「墓をこれからも守り、遺品はご家族に渡せるまで大事にとっておきたい」と祖父の意思を継ぐ考えだ。
 〃世紀の旅行家〃岡田芳太郎は、どのような思いを胸に三十年もの間、徒歩旅行を続けたのであろうか。
 日記には、「私のモットー」が記されている。
 「一時の快楽は永久の苦痛の種を蒔くものなり」
       (おわり)    (堀江剛史記者)

〃世紀の旅行家〃=岡田芳太郎の謎=連載(上)=笠戸丸以前にブラジルへ=世界を歩き、レジストロに死す
〃世紀の旅行家〃=岡田芳太郎の謎=連載(中)=新聞が伝える孤高の死=レジストロ邦人の温情