老ク連、「開拓の記憶」=〃ふるさとの旅〃へ=連載(2)=上塚翁の〃人情〃直にきく=もらい泣きする人も

2007年5月22日付け

 平野植民地をあとにした一行は、ノロエステ線を進んでリンスに入る。カフェランジアから先導を引き受けていたリンス慈善文化体育協会会長の安永和教さん(61、三世)は、一行を文協会館に招いた。
 赤い欄干が目を引く日本式の花壇、大きな体育館に二十五メートルプール。会館二階には、資料館が整備されていた。
 服、時計、電話、柳行李(やなぎごうり)、のこぎり、蚊帳のかかった寝床、ランプや古い太鼓などなど。懐かしい史料を見て参加者らは口々に思い出を語り始め、門脇節子さん(74、東部紅葉会)は手動ミシンを前に「お母さんが使ってた」と目を細めていた。
 昼食後、一行は〃移民の父〃上塚周平の史跡を訪ねて、いざプロミッソンへ。
 ボン・スセッソにある上塚周平広場では、安永ルイス・プロミッソン日伯文化体育協会会長はじめ、安永忠邦さん(86)と安永家の人々が一行を迎えた。
 「先生は本当にすばらしい人でした。皆様がこうやって来てくれることが一番うれしい」と忠邦さん。忠邦さんは同植民地で「先生の足元で生まれた」という。それ以来、八十六年間を、ずっとプロミッソンで過ごしてきた。
 「(移住)十周年のときに、先生の家を建てるという話があったけど、先生は『あんたどんが家ば建てたっちゃ、わしは入らんばな』って強い熊本弁で言いまして、結局記念塔を建てることになりました。私らにはこの記念塔は先生の魂のようなものです」。
 広い広場には、十周年の記念塔のほか、句碑、頌徳碑、観音堂などが建ち並ぶ。一つずつ解説を加えながら、忠邦さんは昔の記憶をたぐる。
 「一九三五年、先生の告別式には、先頭の車が(十キロ先の)お墓に着いたときに、まだ最後の車が家を出てなかったくらい、ブラジル中から人が集まったんです。市役所も閉まり、先生は日本人だけの人ではなかった」。
 涙ながらに語る忠邦さんに、参加者の間にも、もらい泣きする姿があった。
 上塚植民地には現在、百五十家族が残る。うち約四十家族が〃田舎〃にいるという。「移民祭は市をあげてのお祭りで、その日には街がからっぽになります」と、忠邦さんは誇らしげに話して、笑った。
 プロミッソン市では、日本移民百周年を記念して来年、広場内に上塚周平の銅像を建てることが決まっている。日系人と市の代表が共同する祭典実行委員会が計画を進め、経済的負担は全て市がもつ。銅像のほか、広場に続く上塚街道の入り口に鳥居を立てたいとの案もある。
 実行委員長の安永ルイスさんは、「二〇〇四年に委員会ができてから二年間は足踏みしていたようだったので、これからガッと進めていきたい」と意気込みを話した。
 一行は頌徳碑の前で、記念撮影。上塚周平の墓地へ移動し、献花と焼香を行った。手入れがゆきとどいた大きな墓を前に、忠邦さんが「来ていただいて本当にありがとうございました」と再び声を詰まらせる。
 実際に地元を訪ねて、はじめて聞ける話の数々。参加者で、プロミッソン生まれの坂本定滋さん(69)は「小さいときに出たから記憶はないんだけど、お父さんが「上塚」とか「マラリアで友を失った」って言っていたのを覚えている。安永さんの話を聞いて、ここに住んでいたのかな、とわかった」。
 上塚周平広場の句碑には、氏の代表的な俳句が刻まれている。
 夕ざれば樹かげに泣いて珈琲もぎ
 夜逃せし移民思ふや枯野星
(つづく 稲垣英希子記者)

老ク連「開拓の記憶」=〃ふるさとの旅〃へ=連載(1)=〃移民の父〃の墓参り=焼香「なんだか寂しいね」