老ク連、「開拓の記憶」=〃ふるさとの旅〃へ=連載(4)=ドラセーナ明朗会と交流=原始林から街に変っていた

2007年5月25日付け

 少々曇りがちな、四月二十九日朝七時半。老ク連一行はリンスのホテルを出て、今回の旅のメイン日程である老ク連支部、ドラセーナ明朗会(千原清夫会長)との交流に出かけた。
 気温二十度。パウリスタ線オズワルド・クルスを経由し、州道四百十五号線を西へ向かう。広がる平原の中、車中では交流会で合唱する歌の練習が行われ、即席の〃老ク連合唱団〃ができた。
 ぐずついていた空がカラッと晴れ上がり、さわやかな日が差したころ、目的地に到着。ドラセーナ文化協会会館では、約八十人強の会員らが二列に並んで、一行を待っていた。
 「老人クラブ連合会には約三千人の会員がおりまして、毎日のように十四教室が活動しています」。一分間の黙祷、『老人クラブの歌』斉唱ののちに、重岡会長は、支部会員の前で本部の現状を説明。
 二世の岡本英樹さん(68)が「私たち二世、三世は先駆者の日本精神を維持していく義務がある」と話したのをうけて、重岡さんは「大和魂のこもった人が育っていてたのもしい。百周年は一世最後の行事。ともに協力していきたい」と言葉を強めた。
 ドラセーナの創立は、一九四五年十二月八日。ブラジル人資産家、エリオ・エスピナルデ氏が一帯を買い占めて、街としたのが始まりだ。
 「会社が土地を売りだして、日本人はリンスやグァララペスなど、方々から一攫千金を夢みて新しい土地を買った」と、文協では先拓者として知られる、井田憲次文協顧問(74、一世)は説明する。
 その後、四九年に日本人会が発足。五〇年に同地に入った井田さんは「毎日のように入植者がいて、五五年には二百家族にまでなった。今は、三百五十家族くらいいるかな」。
 各移住集団地に日本人会ができ、連合日本人会も組織されていた一昔前。オールヴェルジ、大和、昭和など移住地の名前をあげ、連合日本人会元会長でも井田さんは、「連合会では、野球、陸上、弁論大会をよくやっていたね」と振り返った。
 一九八七年に現在の会館を建て、昨今人気なのがゲートボールだ。二十年ほど前から始まり、八チームを組む。全伯大会で優勝しており、会館に並ぶトロフィーは二百個以上。当初から参加している中野マリオさん(75、二世)は「やめられない」と、満面の笑みを見せる。
 会館サロンでは、最高齢出席者、九十七歳の大原きみこさんが見守る中、老ク連一行と明朗会会員らが、同行していた宇野妙子JICAシニアボランティアの掛け声に合わせて、体操やゲームを楽しんでいた。明朗会の会員は現在七十人程度で、三十年前からの活動記録が全て詳細に残されている。
 ドラセーナから十キロほどいったジュンケイロポリスに住んでいたことのある、一行の門脇和雄・節子夫妻は「四十年ぶりに来ました。昔は三人の子供を連れて、シネマを見たり、ソルベッチを食べたり」。街は大きくなったが、よく通っていたセントロ周辺は変わらないと話し、「きれいになったわよね~」と、感慨深げに再訪を喜んだ。
 文協会館前が飛行機の滑走路だったこともある。原始林が今では街になった――。「もう若い人の時代。若い世代に譲るようにしてます」と井田さんは、亀井たけし文協会長(48)を遠くに眺め、にぎやかな交流会を横目に、ピンガを傾けてゆったりと笑っていた。
(つづく、稲垣英希子記者)