コラム 樹海

2007年5月26日付け

 先頃、「岡田芳太郎の謎」という連載が掲載された。笠戸丸より2年も早い1906年4月にリオへ上陸している。勿論、同年3月には鈴木貞次郎(南樹)がいたし、同年7月には藤崎商会の後藤武夫がサンパウロに着いているが、あの頃に世界を股に掛け徒歩で旅した日本人は珍しい。この人物は、筆者も初めて知ったのだが、この記事のきっかけが故・鈴木悌一氏の「山庵実録」によるというのがいい▼実態調査で知られる悌一氏は、むしろ「悌さん」の方がふさわしい。ピンガ党で猛煙家。その一方では水泳が大好きで実態調査の纏めを東北大学にしたのも「あそこにはプ―ルーがあるからな」とニコリ。かなりの毒舌家で激しいコロニア批判も懐かしい。神戸1中を中退して渡伯。語学を学ぶためポ・アレグレの神学校に入り級友らとの明るくも健全な「ワイダン」を語るときの笑顔は今も忘れられない▼その悌さんが、神学校にいた若い頃に記したのが「山庵実録」だが、世界徒歩旅行家に対する視点は、かなり厳しい。人文研のホ―ムペ―ジで鈴木正威理事は「青年期にありがちな客気にみちた生意気ざかりのころである」とし「よほど虫のいどころがわるかったのか」と記している。だが―冷徹な目と自由闊達さをもって鳴る「鈴悌さんなら―ありそうな話だ」けれども、この辺りも真に「謎」が多い▼こんな昔の話を書いていると泉下の悌さんが、苦笑しているだろうけれども、兎に角―偉大で愉快な楽しい人だった。その評伝が鈴木正威氏の筆になり近く人文研から発刊される。是非―コロニアの人々にも一読してほしいと呼びかけたい。(遯)