85歳女性=元ドミニカ移民の手記――日本出て50年、今イタクァで自適=〃入植〃の一夜明けて=薪拾ってご飯炊く

2007年5月31日付け

 ドミニカからブラジルに再移住した人たちは少なくないが、どうして再移住したのか、記述する人は少なかった。日本で先年、訴訟があったほど「ドミニカ移住が悲惨だった」にもかかわらずである。このほど、再移住組の一人、八巻たつさん(85、イタクァケセツーバ在住、農業)の手記を入手できたので、つぎに紹介する。八巻さんは、日本を出てから五十年。ブラジル生活四十四年、苦闘を強いられたドミニカ生活は六年三ヵ月におよんだ。
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 一九五七年二月五日、生まれ故郷を後に、横浜斡旋所を出発して、横浜の桟橋から「あふりか丸」に乗船しました。ドラの音が鳴り終わると、吹奏楽団の「蛍の光」の演奏です。五色のテープの波が切れ母国を離れた時は、胸が一杯になり涙で頬を濡らしました。見送りの人の姿が見えなくなるまで埠頭を眺めていました。
 生まれてはじめて乗った船。夕飯は赤飯と頭つきの鯛焼をご馳走になって、同船の皆さんも楽しそうでした。次の日からは誰もが船酔いして、食事する人も少なく四、五日過ぎました。その後、船の中の日課がはじまりました。船酔いする者が少ない子供たちは日本語学校へ、大人たちはスペイン語の勉強です。
 ドミニカまで一カ月の航海で、船の中ではダンスやら演芸会、運動会など、いろいろの催し物があって楽しい旅でした。パナマ運河を通過するので、その風景を見ようと朝早くから、甲板にでて、水平線より太陽が昇るのを見とれて、何と表現して良いのやら感激しました。
 有名なパナマ運河を肉眼で見ることができました。素晴らしい仕組みになっていました。夢にも見たこともない運河を通過すると、クリストバルの港です。荷物を上げたり降ろしたりする人夫が黒人ばかりだったのも驚きでした。
 三月七日、待望の島が見えてきたので、甲板に出て眺めました。ドミニカ国がだんだんと近くに見えてきます。気持ちがなんとなく落ち着きません。午後の三時頃になると、陸地がだんだん近くなって、船は水先案内の船に先導されてトルヒーリョの港に着岸しました。
 港には第一次で入植した方たちが迎えにきて下さっていたのですが、厳しい太陽に焦がされて、日焼けした姿で、日本人か現地人か見分けが付かないほどに黒かったので驚きました。船が錨を降ろし上陸です。荷物が船倉から出てきたので、税関検査が始まりました。検査が夜までかかったので、また船に上って最後の一夜を過ごしました。
 三月八日は、船での最後の朝食をご馳走になって、弁当もいただき、タラップを一歩一歩踏んで下船です。荷物の検査が全部終わるまで待って、船員さんやブラジル、アルゼンチンに行かれる方たちに見送られ、午後の一時頃、三台のバスに乗りました。サント・ドミンゴから三百キロも離れているハイチとドミニカの国境にあるダハボンという所に向かったのです。最初、車窓のドミニカは誰もが珍しく、移り変わる景色を眺めていました。そのうち、バスに揺られて寝てしまった者もあれば、唄を歌っている人もいてさまざまでした。外は暗くなってきて、長い旅も終わろうとしていました。
 待ちに待ったダハボンの町に到着です。小さい町でした。バスから降りてダハボン地区の市長さんや神父さんから歓迎の言葉をいただき、ドミニカで暮らすのに必要ないろいろな注意を受けてから、自分たちの住むコロニアに向いました。
 ようやく夜もふけた十一時、日本人のコロニアに到着です。集合所には、海協連の横田さんと第一次で来ておられた会長さんが迎えて下さいました。これからの生活にそなえたお話を聞いてから、自分たちが入る家の鍵をいただいて、暗い中を探し廻って、ようやく見つけることができたのです。
 入って疲れた体を休めようと思いましたが、雨が降ってきたので、集会所の廻りに置いていた荷物を家に運んだりしました。結局、一睡もしないうちに、東の空が明るくなってしまいました。お腹も空いているので、ご飯の仕度をしようと思っても、水道もありません。道の下の方を流れる川の水を汲んできて、薪を拾ってきてご飯を炊きました。家族で食べたので、お腹も一杯になりました。その後で、それぞれが自分の荷物の片づけをしたのです。
 二日目、海協連の横田さん一行が来られて、土地の配分の話をされました。移民契約書に書いてあった十八町歩の土地は配分されず、ドミニカ政府が、現地人が今まで耕作していた土地を取り上げて、日本人に配分したのです。(つづく、八巻たつ)