拓魂=県連・ふるさと巡り=汎ソロの移民史名所を訪ねて=連載《3》=プ・プルデンテ=奥ソロ初の中学校設置=独自の図書館や史料室も

2007年6月2日付け

 五月十七日晩、ふるさと巡り一行は市内中心部にある会館でプレジデンテ・プルデンテ農村体育文化協会(ACAE)のみなさんから出迎えられた。
 「よくいらっしゃいました」。堀尾康幸会長が多忙なため、中矢料一リカルドさん(サクラ中矢アリメントス経営役員)が会長代理として歓迎の挨拶にたった。市の経済振興局長も兼任する地元の名士だ。
 今年創立四十五周年のヴィラ・インドゥスツリアル文化体育協会(ACEVI)の水川忠会長も「共に日本文化継承に邁進していきましょう」とのべた。
 司会を務めた同民謡協会支部長の小野忠義さん(81、熊本県)の音頭で乾杯した。「民謡やると百歳まで生きます」と元気いっぱい。同地文協の百周年実行委員長も兼務する汎ソロ日伯連合文化協会の纐纈俊夫会長(66、二世)は「このようなフェスタで、百周年記念への第一歩を踏み出したと感じる」と語った。
 現在の会員は二百家族程度だが、三十年前まではずっと四百家族を維持していた。小野さんによれば、同地から約一千人もデカセギに行っており、静岡県浜松市に住んでいるものが多いという。六キロほど離れた場所にはゲートボール三十面や野球場もある立派なカンポもある。
 今年も同文協主催の寿司祭り(Sushi Fest)が十五日から十七日まで、セントロ・デ・イベントスで盛大に行われる予定だ。
 婦人部手作りの料理を食べ、一段落したところで民謡協会のみなさんがおそろいの青のハッピで登場。纐纈さんの尺八を伴奏に、「北国の春」を会場と共に歌い、最後には恒例の「ふるさと」を大合唱した。
 一行の岐部玲子さんと多田康子さんから、同文協に本四百冊が寄贈された。
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 歓迎会に先立ち、一行は図書館と史料室を案内してもらった。文化部の野村いさお理事によれば、図書館は一九八三年の移民七十五周年の記念事業として文化部によって作られた。
 当初四千冊だった蔵書は現在では九千冊あり、無料で貸し出されている。勝ち組機関誌の『輝号』『旭号』がほぼ全刊揃っている」という。本紙がサンパウロ市の移民史料館に問い合わせたところ、「少数冊しかない貴重な史料だ」という。
 そのすぐ奥には「移民史料室」という重厚な木製の表札がかかった部屋がある。案内してくれた水川昇さん(79、岡山県倉敷市出身)によれば、昨年から持ち寄りを呼びかけ、今年になってからオープンしたばかり。年代物の野球優勝旗、手作りの囲碁盤、蛇腹のカメラ、手回し蓄音機、戦前の日本語教科書などが陳列されている。
 水川さんは「プルデンテで一番最初の中学校は、ここだったんですよ」と建物を指さした。
 『極光林』をひもとくと一七年当時のプルデンテは「当時ヴェアードと称せられたこの地帯は、太古そのままの樹海で、オンサが月に咆哮し毒蛇が土に安眠をむさぼる所であった」(五十八頁)という。
 同地への日本人入植は一八年、河村数市と井清順六の二家族が最初だとある。続いて一九年に片岡音市、さらに二〇年に三共植民地ができた。同書によれば、四〇年頃には植民地数三十四、小部落を加えると五十を数え、同管内で三千家族も住んでいた。「当時マリリアにも匹敵する大集団」(五十九頁)だった。
 二四年の田付七太大使の同地視察を機会に連合日本人会が創立され、二九年に寄宿舎兼日本人小学校が建設された。のち奥ソロ唯一の中学となり、三七年に日本から補助金をもらって完成させ、三九年には商業学校も設置、四〇年には一流校サンパウロ中学を合併した。
 日本から百二十コントもの補助金が下付され、本館、講堂、二階建て二棟の寄宿舎を完備。『萬葉樹』(一九六三年)によれば、「当時世界にも例少なき日本人経営の中学校を現出せしめたのである。第二次大戦に際しても、当地方唯一の中学校であり、ブラジル人も平等に取り扱ってきたので閉鎖を命ぜられる事もなかった」(九十一頁)。
 どおりで立派な建物な訳だ。七十年を経ても威風堂々としている。
(深沢正雪記者、つづく)

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