ブラ拓製糸、激しく盛衰=77年事業続けて=今「量より質」めざす=最大生産は96年だった=桑農家あってこそ 常に第1次産業

 〃天の虫〃蚕が作る糸を紡ぐ――。ブラジル拓殖組合の名を残す唯一の企業「ブラ拓製糸株式会社(BRATAC)」(天野アントニオ尭夫社長)。一九三〇年にバストスで始められた繭の生産販売以降、対枢軸国資産凍結令、戦後の軍需景気終焉を乗り越えてきた。ブラジル製糸業の近代化を図りながら、九年前までは毎年生産量を伸ばし続けていた。現在、日本での着物(和服)需要の低下、中国の台頭が顕著となっている中、量を押さえながらも質の高い糸の生産を目指しているという。茂原勉専務取締役(58、バストス工場長)と元社員の大高治夫さん(70)に「BRATAC」の今を聞いた。

 「自殺したいようなことは何度もありましたよね」。茂原さんはさわやかに笑いながら八〇年代を振り返る。六七年にBRATAC事業拡大のための呼び寄せ移民として来伯した第一号だ。大高さんは「給料がない頃もあったよね」と横でうなづく。
 「製糸業界の浮き沈みは絶えずあります。物の値は市場が決めますから」と茂原さん。原料を現地で調達し、製品は輸出がほとんどのため、為替の影響は避けられない。
 現在、半径千キロ以内に五千六百家族の直属農家がおり、養蚕を担当している。「八〇年代まではパウリスタ線沿いでできたんですけど今は土地の収益性が問題で駄目です」。バストス、ロンドリーナ、ドアルチーナの三工場が稼動中だ。
 蚕糸のコストに占める原料の割合は七〇%以上。九七年までは「コストを減らすためにずっと拡大の方向で」というのが、長年の方針だった。五一年に敵性国資産凍結令が解除されてから、全ブラジル生産量の八〇%強を占めるようになり、年生産量は四十トン弱。六七年に百トン以上、七五年に五百トン以上を生産し、日本の糸需激減で苦しかった八〇年代でも量を増やしつづけてきた。
 「九七年以降、生産量を下げないと採算がとれなくなってきました。中国の価格に合わせようとしても難しいんですね」。製糸は人手のかかる集約産業で、桑農家があってこそ成り立つ。茂原さんは「規模が大きくなって機械を使っても、我々は第一次産業なんですよ」と、かみ締めるように話した。
 九六年に年間千三百九十三トンの最大生産量を記録したのちは、年々減らし、今年の生産予想は八百十五トンだ。日本、ヨーロッパ、インドへの輸出をしており、全世界の生産量の一・七八パーセントを担う。
 「一キロ二万円弱で売れたころが最高で、二千円を切ったときもありましたね」と茂原さんは軽く話し、「今は、いかに(全く同じものができる)合繊維に近いものを作るか。同じ太さで同じ質であって、絹のよさである手触り、光沢、絹なりのある糸を作るか、ということに専念しています」と、力を込めた。
 BRATACの糸は、フランスのブランドメーカー「エルメス」製品に使用される九〇%の絹を供給している。「蚕、〃天の虫〃が作る糸は人間には作れない。いい繭を作り、いい技術で、品質への信頼を得ることです」と、茂原さんは自信を持って、BRATACの方向性を示した。