ブラジル農業界への日系貢献のシンボル=コチア産組=新社会の建設=創設者の光と影=下元健吉没後50周年=連載《第19回》=認識運動の地方会場で護衛=「生きて出られないかも」


プレ百周年特別企画

2007年10月23日付け

 栗原章行氏は一九四四年、二十代半ばの頃にコチアに就職した。現在八十代半ばになる。
 「私が組合に入ったのは養鶏が盛んになり始めた頃で、組合本部の横の三角地帯に飼料の配合所があり、そこで働いた。結婚のときは下元さんが仲人をしてくれた。
 仕事以外の場では、いつもニコニコしていた。土、日などに家へ行くと、本当に人の良さそうな感じだった。
 仕事の場では、こちらの話は一応聞いてくれた。が、意に沿わないと、ポカッとやられた。人の話を全部聞いてからしか、確定した返事をしなかった。意見書のようなものを出すと、すべて赤チンタ=インキ=のペンで書き込みをして返してきた」
 前出の北パラナの松原氏によると、下元の下で、産青連運動の指導に当たっていた井上清一が、意見書を下元に提出したことがある。しばらくして返ってきた書類には朱筆で「バカ」と書いてあったという。
 再び栗原氏の話。
 「(下元は)非常に頭の鋭い人であったから、思いつきのような意見は聞いて居られない、という心境であったのではないか。またよく怒鳴ったが、それは、何故、俺の言うことが判らんのか、という気持ちだったろう。
 根本からモノを考えている人だった。
 職員の中に山登りの仲間があって、年に一、二回、五人くらいでミナスとの州境の山に四、五日かけて登った。それに(下元が)参加した。そうしたときは全く田舎の親父さんという感じだった。『お前たちは、馬の乗り方が下手だなあー』などと言っていた。
 私は、彼が何故、この山登りに参加するのか判らなかった。が、後になってフト漏らした『ブラジルの高原地帯では、種イモ作りは無理だなあー』という一言で気づいた。なんとか良い(バタタの)種イモをつくりたくて候補地探しをしていたのだ。我々が上った山は皆、地形が悪く広い面積の平地がない、トラトールを入れることが出来ない土地だった。だから種イモ作りは無理だと。根本から生産を上げる方法を考えていたのだ。
 下元は一方で放漫という批判もあった。他所の組合を、のみ込んで行ったという一面もある。リーダーになる人間には癖があるものだが、ひと癖もふた癖もある人間だった」
 元職員・遠藤健吉さん。七十代後半。
 「私は一九四〇年に一旦、日本へ帰国し戦後五二年に再渡航した。こちらに居った兄の吉四郎に連れられて、コチアの本部へ行った。兄は下元を自慢しており、会わせたかったらしい。
 兄は下元の親父を尊敬していた。『戦前、産青連運動が始まったとき、親父は田舎の若造を相手に真剣に議論をしてくれた。それに感激して産青連にもコチアにも入った』と言っていた。
 勝ち負け騒動の頃、親父は認識運動のためよく地方に出張したが、アルバレス・マシャードに居った兄の所へサンパウロの産青連の仲間から指令が来て、親父が奥地出張の折、護衛についた。バストスに親父が来たときも兄が護衛についた。親父が話している間、会場が殺気立って『こりゃ、俺は生きて、ここを出られないかもしれないと思った』そうだ。
(つづく)