コチアは生きていた=30年ぶりのセラード「赤木報告」(2)=100年前の農地再生され、今は穀倉地帯、なお余裕

ニッケイ新聞 2007年12月14日付け

 コチア産組は蘇った
 いま、全国に新しい穀倉地帯を出現させているブラジルのセラード開発は、常にブラジル全体の農業の将来を考えていたコチアの小笠原一二三(ひふみ)という人物の着想によって始まった。戦前から農業生産地帯として栄えてきた北パラナは、年々進む大農化とともに、耕地面積が狭く感じられるようになり、また、次、三男対策として、新たな農地確保に迫られていた。当時、小笠原さんは、マット・グロッソからアマゾン地方まで、自身で視察して、セラードに目をつけた。
 三十年前のセラードは、ただでももらい手がない荒涼とした原野だった。表土は浅く、強い酸性土、乾期には表土深くまで乾燥してしまい、地表には僅かな歪性植物と雑草しか生えない。毎年野火によって焼く尽くされ、有機物は存在しない不毛に近い地帯だった。
 従って、セラード地帯の産業は衰退し、住民は生きるために、僅かに残っている木を切り取って炭を焼き、それがさらにセラードから樹木を根絶する悪循環に入っていた。だから、セラードの住民は、青年期に成長すると、村を捨てて、出稼ぎに出るのが習慣になっており、地域の住民は年々減少していた。
 一九七〇年代前期に、ミナス、ゴィアスなどのセラード地帯を車で走った人で、心ある人なら、何日走っても、平坦な平原に果てしなく広がる荒野に、深い悲しみを覚え、人類が犯した罪の深さを、改めて自覚したであろう。二十年かかって五メートルも伸びない歪曲した潅木、その下に辛うじて生きている雑草は、熱帯の半年にわたる乾燥と野火、強烈な太陽にさらされて、年々姿を消していた。
 こんな土地をみて、ここに農業生産を思い着く人物は、当時のブラジルでは稀れだったろう。コチア産組の小笠原さんはその一人だった。彼は筆者に語ってくれた。「セラードで会った老人達の話を聞くと、百年前までは、この地帯は豊な農地が広がっていて、みんな無肥料で、作物ができたものだという。そこで、土の組成を調べたら、悪くなかった」。これなら、土を育てれば、必ず農耕地に生まれ変わると、確信を持った。
 このときの小笠原さんの直感が、ブラジル中のセラードを、穀倉地帯に生まれ変わらせるきっかけとなり、ブラジル国民が、ブラジルは世界の食糧生産基地であると確信を強める一助になった。
 セラードとは、七〇年代初頭には一億三千万~一億五千万ヘクタールと記録されているが、現在では二億ヘクタールを超えると、公式データに出ている。現在ブラジルが栽培している綿、米(こめ)、トウモロコシ、大豆の四大作物は、二〇〇七~〇八農年度の作付け予想面積について、政府のブラジル配給公社(CONAB)は、四千五百八十三万ヘクタールと発表しており、従ってこの植付け面積の四、五倍のセラード面積を抱えている。
 現在、世界中の関心を集めている砂糖キビの栽培面積も、今農年度の植付け予想は六千九百二十四万ヘクタールとなっており、セラードは、この面積の約三倍に当たる。世界各国から、バイオエネルギーの生産が、食糧生産を脅かすと警告されるたびに、ルーラ大統領は、無用な警鐘だと一笑に付しているが、これはセラードのように、まだ開発できる広大な遊休地を抱えている実情を反映したものである。(続く)

「コチアは生きていた」=30年ぶりのセラード「赤木報告」(1)=小笠原一二三さんの先見の明=驚嘆させられる変貌