コチアは生きていた=30年ぶりのセラード「赤木報告」(5)=パルナイバ上流農畜産組合の建物=〃昔の泥臭さ〃が消えた=名前を変えたコチア組合

ニッケイ新聞 2007年12月20日付け

 サン・ゴタルドの町外れに、パルナイバ上流農畜産組合が、地域農業隆盛の象徴のように、設備を拡張している。この組合は、コチア産組中央会の崩壊により、サン・ゴタルド支部が、名称を変えて独立したもので、組合精神も内容もコチアそのものである。ただ昔のコチアと異なるのは、組合本部の美しさである。植木はきれいに剪定され、敷地の何処にも塵一つ落ちていない。農協本部であるから、産物や生産資材を積んだトラックが絶えず往来し、汗臭い労働者も出入りする。
 しかし、エンジンの排煙も、労働者の臭いも感じさせないような美しい造園と手入れが行き届いた芝生、清潔な組合事務所は、まるで世界的に有名な多国籍企業の事務所をしのばせるように、細部まで注意が行き届いている。
 これは経済的豊かさと、精神的ゆとりが伴わないとできないことである。かつて、南米最大を誇ったコチア産組の本部は、ピニェイロスにあった時代から、どこも土ほこりが立ち、雑然として騒々しかったが、この組合は、いつ外国人の訪問者があっても、堂々と受け入れられる整備がなされている。国際市場と、対等に立って取引している組合の姿勢が伺われる。
 一基六万俵の穀類を貯蔵できるサイロを十基並べたり、組合員全体が生産するコーヒー全部を、相場が出るまで、貯蔵しておく空調付き倉庫などの設備、それに訓練された職員は、地方組合という感じではない。生産者の思考、生産動向、組合の進路を見ると、サン・ゴタルドの日系農業者は、トラクターまで人工衛星コントロールで運転しているように、ブラジルで最先端の農業技術を採用しながら、まさに自信満々で、更なる発展を目指していると言える。
 このようなサン・ゴタルド地方の発展を、三十年前に誰が想像できただろうか。一九七七年に、この町を訪問したときは、長い人気のない泥道を走っていたら、いきなり民家が現れて、町の中心部に着いてしまった。小さな町だった。この町に、先発隊として、若い二世や、コチア青年が単独で開発に従事していた。多くはパラナ州から、千五百キロ、二千キロを旅して、妻子家族、恋人と分かれて、長い独身生活を送っていた。当時のセラードは、地域で消費する食糧でさえまかなうことができず、米はぼろぼろの陸稲、肉は臭い日干し肉、野菜などなく、日系人が家族で生活できる条件を持たなかった。
 二世達は、自分で生活の基礎を築くまでは、この荒野に家族を呼ばない決意を持っていた。また、二世たちは、サン・ゴタルドの土を踏んだその日から、自分達に一つの戒律を、申し合わせていた。それは女性である。男が出稼ぎに出た後のセラード地帯は、女性が圧倒的に多い。その中で、長い一人暮らしを覚悟していた二世たちは、「一人が間違えば、皆が同じ目で見られる」と、日系人としての立場を話し合い、接近してくる女性を無視して、開発一筋に集中し、決して自分に課した戒律を破ることはなかった。(続く)

「コチアは生きていた」=30年ぶりのセラード「赤木報告」(1)=小笠原一二三さんの先見の明=驚嘆させられる変貌

「コチアは生きていた」=30年ぶりのセラード「赤木報告」(2)=100年前の農地再生され、今は穀倉地帯、なお余裕

「コチアは生きていた」=30年ぶりのセラード「赤木報告」(3)=人工衛星コントロール方式=究極まで生産性を追求=人工衛星操作でトラクターを運転

「コチアは生きていた」=30年ぶりのセラード「赤木報告」(4)=30数家族で「生産株式会社」組織=資材、機械一括購入、労働力も〃共有〃=農家が作る生産株式会社