「コチアは生きていた」=30年ぶりのセラード「赤木報告」(6)=日本人は気が狂っている?=入植時、地元住民の見方=「開拓は失敗必至」

ニッケイ新聞 2007年12月21日付け

「日本人の億万長者が来た」

 いま、サンパウロ市から、ミナス州サン・ゴタルドの町までは七百三十キロのアスファルト道路を、車なら八時間くらいで行ける。しかし、三十年前は泥道のため、早朝から夕方までかかった。一九七四年ごろ、パラナのセラード開発先発隊は、パラナから生産資材と農機具を積んだトラック群を従えて、何日もかけて、この町へやってきた。
 当初、コチアが作った入植地は、一区が二百~二百五十ヘクタールの小さな区画であったが、これを開発するには最低でも、コンバイン一台、百馬力以上の大型トラクター一台、六十馬力くらいの中型一台、乗用車一台、トラック一台が必要だった。
 これまで町では、市長が乗用車を一台、市役所におんぼろの小型トラックが一台あっただけで、トラクターなど見たこともない住民が多く、住民は日系人が持ち込んだ車両と、機械群に驚き、やがて、「日本人の百万長者たちが、やってきた」と評判が立った。
 大部分の住民たちは、何が起こったのか理解できずにいたが、話題のない田舎の小さな町では、「ミリオナリオの日本人達がセラードに何か植えるつもりでやってきた」と、たちまちニュースになった。
 何を植えるのか?恐る恐る二世にたずねた住民は、大豆とか、ジャガイモを植えると聞いて、あの日本人は、気が狂っているらしいと考えていた。また、大豆は見たこともないし、それを大面積に植えると知って、一体どうして収穫するのかと心配した。収穫は手で刈ることしか知らず、コンバインなどまったく知らなかった。そして、植え付けたあと、何も収穫できず、セラードに敗退して、また日本人は帰ってしまうだろうと、本気で心配していた。
 住民にとっては、セラードとは何を植えても作物は成長せず、ここで農業を試みる者は必ず失敗し、投資した財産を失って逃げ出す歴史が繰り返されたところであり、日本人も二~三年で逃げ出すと決めていた。事実、最初に植えたコメは、標高一千メートルという高原のために、いもち病にやられて失敗した。しかし、当初から二~三年は試験期間だと決めていた彼らは、失敗も見込みある成果も、皆で報告しあい、着実にセラード型作物栽培方法を確立して行った。
 日本人が来てから、日雇いの仕事が増え、町に金が回るようになったと喜んでいた住民は、日本人が開発に失敗して、引き揚げた場合、町はまた元の死んだような沈滞に戻ると、本気で心配していたものが、次第に喜びに変わっていった。 同時に、地元住民は日系人に敬意を持って接するようになり、やがて、町の女性たちは、二世達へ羨望と尊敬を持って接近するようになった。家族と離れ、単独で開発に従事していた当時の若い青年たちは、女性の積極的攻撃を受けて受難時期に入った。
 しかし、彼らは、セラード農業という未知の世界に挑戦して、すべてが実験からスタートするために、各自の試験を持ち寄って、皆の役に立てようとする共同精神を開発と共に育てていった。
 巨大なセラードは、未知の可能性を秘めている代わりに、自惚れや利己主義で取り組んで行くと、たちまち裸にされる怪物である。一人一人の微力さを知ると同時に、共同の力の偉大さを知って、彼らはこのセラードに、若いエネルギーをすべて投入し、挑戦によって自信を強めて行った。(続く)

「コチアは生きていた」=30年ぶりのセラード「赤木報告」(1)=小笠原一二三さんの先見の明=驚嘆させられる変貌

「コチアは生きていた」=30年ぶりのセラード「赤木報告」(2)=100年前の農地再生され、今は穀倉地帯、なお余裕

「コチアは生きていた」=30年ぶりのセラード「赤木報告」(3)=人工衛星コントロール方式=究極まで生産性を追求=人工衛星操作でトラクターを運転

「コチアは生きていた」=30年ぶりのセラード「赤木報告」(4)=30数家族で「生産株式会社」組織=資材、機械一括購入、労働力も〃共有〃=農家が作る生産株式会社

「コチアは生きていた」=30年ぶりのセラード「赤木報告」(5)=パルナイバ上流農畜産組合の建物=〃昔の泥臭さ〃が消えた=名前を変えたコチア組合