■記者の眼■両陛下から頂いた〝追い風〟=群馬ご訪問に込められた意味

ニッケイ新聞 2008年4月9日付け

 天皇皇后両陛下は今年が日本移民百周年(日伯交流年)であることから、日本有数のブラジル人集住地である群馬県大泉町などを七日、ご訪問された。
 読売新聞七日付けには、「この日の交流は、移住百周年の年に同国を訪問できない両陛下の強い希望で設定され、駐日ブラジル大使も同行した」とある。
 両陛下が地方をご訪問される場合、通常は日本国民を対象とする。今回のように国内で、外国人をご訪問されること自体、おそらく珍しいことに違いない。
 しかも、大泉町は、ブラジルのリベルダーデのような存在であり、いろいろな意味で在日ブラジル人社会を象徴している。そこを訪ねられた意味は深い。
 九〇年代後半、日本のメディアはこぞって大泉を「ブラジルタウン」と称し、デカセギ定住化をテーマにした番組や記事を大量に流し、研究者はぞくぞくと調査に入った。七月末の大泉祭りでは、町民が誇る伝統的な御輿より、日系人のサンバパレードばかりが注目を浴びるようになった。
 もとからの地元住民の中には、それを喜んでいない人も多かった。その後の町長選挙では、日系人を積極的に導入してきた一派が負け、町政の流れが変わった。
 そんな頃、あるブラジル人商店主からこんな話を聞いた。「ブラジルタウン」という言葉をいれたテレフォンカードを作ろうと思い立ち、念のために町役場に許可を願い出たら、「ダメだ。嫌がる町民がいる」と断られたというのだ。
 地元住民がそう思うのももっともな部分があった。ほとんど事件が起きたことがなかった人口四万人の静かな町に、ブラジル人が来てからは殺人事件、放火騒ぎまで起きた。
 群馬県の事件ではなかったが、一昨年来、日本のマスコミは帰伯逃亡デカセギ問題をやけに大きくクローズアップしてきている。
 武蔵大学社会学部准教授のアンジェロ・イシさんが、月刊『オルタ』一月号で「本当はその一部であるはずの三十万人の在日日系ブラジル人たちは、(百年祭から)無視され、忘れさられ、取り残されている」と残念そうに書いている。
 日本のデカセギにとっては、逆風の中での百周年と言ってもいい。
 そんな中での今回のご訪問は、「日系人もまた、市民として行政が面倒を見るべき生活者である」と暗にお示しになったと考えていいのではないか。
 読売新聞八日付けには、両陛下がブラジル人従業員二十人と懇談された様子が以下のように報じられた。
 「皇后さまは別の男性従業員に『ご家族は』と質問し、男性が『子どもが三人います』と答えると、『おめでとう。ブラジルと日本の架け橋になるお子さんですね』などと話された」。
 これは、日系人にとっては、とりわけ感慨深い言葉だろう。
 さらに記事には、「最後に天皇陛下が、全員に対し、『大変な苦労をされたと思いますが、それを乗り越えて楽しく過ごされていることを伺って、うれしく思いました』とあいさつされた」とある。
 現在の逆風を案じ、それを乗り越えて、両国の架け橋になって欲しいとの思いが感じられる。
 記事の最後に、ご訪問を受けた大沢正明知事は、「教育をはじめ、様々な面から(外国人児童を)しっかりと受け入れられる態勢を県としても整備しないといけない」と話したとある。
 両陛下が心配なさってわざわざご訪問される「生活者」を県民として扱わなくてはいけない、との意思表明だろう。
 ブラジル日系社会の行く末にとりわけ深い関心をもたれている両陛下ならではの、百周年後を見通した深い洞察が今回のご訪問にはある。四月二十四日の東京で百周年式典が行われる直前の、絶妙なタイミングだ。
 普段はブラジル人の悪いニュースばかり報じる日本のメディアも、こぞってご訪問を報じ、今回「百周年」を知った人も多い。日本側でこれ以上の開幕イベントがあるだろうか。
 両陛下から日本のブラジル人は、貴重な〃追い風〃をいただいた。
 子や孫の一人が日本にいっている人が、コロニアの大半を占める。いわば在日ブラジル人社会は、ブラジル日系社会の一部でもある。ブラジル側も〃追い風〃に報いるよう、皇太子殿下を立派にお迎えしなくてはならない。  (深)