天皇陛下が労苦ねぎらう=百周年・交流年東京式典=祖国救援、デカセギにも触れ=首相、伯関係者ら4百人出席

ニッケイ新聞 2008年4月25日付け

 【藤崎康夫=東京支社長】四月二十四日午後四時半から百周年記念式典がホテル・オークラ東京で行われ、天皇皇后両陛下、皇太子殿下、三権の長、ブラジル政府、在伯日系人代表、日ブラジル会議員連盟メンバー、日伯交流年実行委員会メンバー、在日ブラジル関係者など約四百名が出席した。
 開会後には、日伯両国歌吹奏、高村正彦外務大臣の式辞に続き、天皇陛下がお言葉を述べられた。陛下のブラジル日系人、在日日系人への温かい思いが、参列者の胸を強く打った。
 日伯交流年実行委員会名誉会長、麻生太郎、内閣総理大臣福田康夫、日系人代表上原幸啓、ブラジル政府代表の官房長官ジルマ・ロウゼフ各氏の挨拶が続いた。
 共同通信によれば、福田首相は「両国の百年を貫くものは日系人たちが積み重ねた努力の営みだ」と強調。百周年記念協会会長の上原幸啓さんは「多大な犠牲を伴う生活に直面したが、われわれは祖国への愛情と尊敬を忘れなかった」と移住者の思いを訴えた。
 記念行事として愛知県東浦町立石浜西小学校の児童による、ブラジルと日本の子供たちが、共に生きる喜びを発表し、参列者たちの大きな拍手がわいた。

天皇陛下のおことば

 本日、ここに、日本ブラジル交流年・日本人ブラジル移住百周年記念式典が、ブラジル政府代表、ブラジルの各界で活躍している日系人の代表を始め、多数の両国関係者の出席を得て開催されることを誠にうれしく思います。
 今から百年前、日本からの最初の移住者が、笠戸丸でサントス港に上陸して以来、数多くの日本人がブラジルに移り住み、今では、日系人の総数は、百五十万人を超え、ブラジルは、海外における日系人の最も多い国となっております。
 初期の移住者は、移住環境が十分に把握されない状況の中で入植しました。移住者を取り巻く自然環境や病気も、また移住者が接する人たちの言語も、未知の世界であり、そうした中で農業に取り組んだ人々の心身の苦労はいかばかりであったかと察せられます。移住者は、そのような厳しい環境の中でまじめに努力を重ね、地域の人々から信頼されるようになりました。
 今日、日系の人々が様々な分野で活躍し、ブラジル社会に貢献していることを頼もしく感ずるとともに、これまでに努力を重ねてきた日系の人々の労苦に深く思いを致すのであります。その陰には永年にわたって日本人移住者を温かく受け入れてきたブラジル政府並びに国民の厚意があったことを忘れることはできません。
 私どもが、笠戸丸でブラジルに渡った第一回移住者にお会いしたのは、今から四十一年前、一九六七年のことでありました。五十九年振りに日本の土を踏まれた七十代前後の九人の元気な移住者にお会いしたことが今も懐かしく思い起こされます。
 私どもは皇太子の時に二回、即位後に一回ブラジルを訪問し、大統領閣下を始め、ブラジルの人々から温かいおもてなしを受けるとともに、各地で日本人移住者とその子孫にお会いしてきました。
 最初の訪問は一九六七年、二回目は一九七八年日本人ブラジル移住七十周年記念式典出席の機会であり、三回目は一九九七年でした。三回目の時には笠戸丸の移住者の中でただ一人の生存者であった中川トミさんにもお会いしました。中川さんが本年の百周年を待たず、一昨年亡くなられたことは誠に残念なことでした。
 近年、ブラジルから数多くの日系人が日本に来て生活するようになりました。私は、今月初めに、皇后と共に、多くの日系人が工場などで働いている群馬県の太田市及び大泉町を訪れましたが、日系人が地域社会に適応することを助けるために、職場や、地元の小学校などで、いろいろな施策が進められていることは心強いことです。
 ブラジルにおいて日本からの移住者が温かく受け入れられたのと同様に、今後とも、日本の地域社会において、日々努力を重ねている日系の人々が温かく迎えられることが大切であると思います。
 なお、この機会に、先の大戦によって大きな痛手を受けた日本に対し、戦後サンパウロ市の日本人有志が「日本戦災同胞救援会」を結成し、三年間にわたって救援物資を送られてきたことを思い起こし、血を分けた同胞の厚情に改めて感謝の意を表したく思います。
 今日、日本とブラジルの関係は、ますます緊密になり、両国国民の間の交流も活発になってきております。今や両国に住むこととなった日系人の存在は、両国間の絆を更に強めることになることと思います。ここに日本ブラジル交流年・日本人ブラジル移住百周年に行われる様々な行事が、両国国民の相互理解と友好関係の増進に資することとなることを期待し、式典に寄せる言葉といたします。