県連ふるさと巡り=リベイラ沿岸とサンタカタリーナの旅=第1回

ニッケイ新聞 2008年5月6日付け

 移民八十周年を記念して八八年にはじめられた県連ふるさと巡りは、好評のうちに年二回になり、移民百周年(二十周年)の今回は、第二十九回(長友契蔵団長=宮崎県人会長)を迎える長寿事業となった。参加者数は百八人と歴代二位の多さで、大型バス三台で移動。日系集団地三カ所にくわえ、今回珍しくサンタカタリーナ州のドイツ系、イタリア系、オーストリア系子孫ら他民族系とも交流し、どこへいっても「ジャポネース、パラベンス! センテナーリオ・ダ・イミグラソン(日本人、百周年おめでとう)」と祝福された。五泊六日で走った距離は約二千三百キロで、北海道から九州までの約二千キロより長い。節目の年の相応しい民族間友好を図りつつ、一人の病人を出すこともなく、全員が充実した旅路を送った。

レジストロから旅開始=史料館は建物が展示品

 「三十、四十年前はこの辺まで川の水が来たので、ここが港だったんです」。地元の近岡マヌエルさん(60)がレジストロ移民史料館脇を流れるリベイラ河を前に、ふるさと巡り一行にそう説明するとみな驚いた様子をみせた。
 それもそのはず、河の水位は五メートルぐらい下にある。「なんでそんなに水位が下がったんですか?」との質問が飛ぶが、彼も分からないという。
 サンパウロ州沿岸部リベイラ河沿いの交通の要衝レジストロ。笠戸丸から五年後、一九一三年に当時は同じ郡だった桂植民地に三十家族が入植したのを嚆矢とし、今年初めにルーラ大統領からその植民地があったジポヴーラが「日本移民の発祥の地」として認定された。
 その昔、サンパウロ州内陸部で採取された金をポルトガルなどに運びだすのに、ここで船積みされるまえに計量登記(レジストロ)していたことが地名の由来だという。
 近岡さんは同地で生まれ、市長の右腕とも言える役職をこなす二世だ。昨年十二月に八十七歳で亡くなった母親は、五歳で親に連れられて同市に移住して以来、ずっとこの町に住み続けた生き証人だった。日本語も堪能で、近岡さんは市議も四期務めた実績もあり、政治家として二十年の経験がある。
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 四月十九日午前八時、いつも通り予定時刻にふるさと巡り一行はサンパウロ市リベルダーデ広場を出発し、地元のレジストロ日系団体役員らの案内で観光地巡りをはじめていた。一九二二年にKKKK(海外興業株式会社)が建設した精米所の建物を利用し、二〇〇二年にリニューアルオープンした。
 八〇年頃までは実際に使用されていたが、沼地での米作では機械が入らないなどの事情もあって敬遠されるようになり、現在では「餅米のレジストロ」との評判を残すのみとなった。
 使用されずに廃墟のようになっていた建物を、九九年からサンパウロ州政府が三百万レアルかけて改修し、州、市、文協で維持運営している。
 史料館に入ると、精米器、お茶の揉捻機、マンジューバを捕った籠、入植当時に使っていた大工道具や生活用品が並ぶ。説明してくれたレジストロ日伯文化協会の山村敏明元会長は梁の鉄材を指さし、「建設当時のそのまま。建物自体が展示品です」という。
 レジストロ入植の特徴は、一三年当時にサンパウロ市のコンデ・デ・サルゼーダス街にいた大工を優先的に入植させたため、レジストロ特有の二階建て木造建築の家々がつくられたのだという。その一軒は、愛知県の明治村に移築され、〇三年に日本の文化審議会によって文化財に答申された。
 二階には日系美術界を代表するような約四十人の作家から寄付された作品がずらり。三階には昔の教科書、姉妹都市の岐阜県中津川市の特産品などが並ぶ。
 一行は、近くのエスペデッショナーリオス(遠征)広場に設置された豊田豊氏の作品を見学した。KKKKから出た精米器の部品などを使った作品は百周年を記念して全部で七つ設置され、「モニュメントの町」として名乗りを上げる町おこしの起爆剤となる。
 同広場の一角には、最初の日本人植民地イグアッペを建設すべく、サンパウロ州政府から無償払い下げを交渉した青柳郁太郎の胸像が静かに佇んでいた。集団自作農による植民地成功はのちの平野、上塚植民地につながった。百周年記念の旅の出発点にふさわしい人物といえよう。    (つづく、深沢正雪記者)