県連ふるさと巡り=リベイラ沿岸とサンタカタリーナの旅=第3回=イグアッペ=「50年ぶりに故郷に来た」=日本移民は市発展に大貢献

ニッケイ新聞 2008年5月9日付け

 「戦前、イグアッペ市は日本移民のおかげでブラジル最大の米作地、輸出地だった。今年は大統領府からベルソ・ダ・イミグラソン・ジャポネーザ(日本移民発祥の地)と認証され、ブラジルの歴史に名を残すことも出来た。大変光栄だ。バンザイ!」
 ミリアン・テレーザ・フォルチス市観光局長は、イグアッペ市に到着したばかりの一行に、笑顔でそう語りかけた。二日目、一行がリベイラ河のさらに下流のイグアッペに到着したのは昼前だった。
 一五三八年に始まったこの町の最も古い時期にイエズス会によって教会として建設され、現在はイグアッペ宗教博物館になっている建物を最初に見学した。
 さらに、今年八月に創立三百六十周年を迎えるボンジェズス・デ・イグアッペ教会へ足をのばした。教会前広場に面した家々は伝統的なコロニアル様式で、鯨の脂と貝殻をつかって固めた厚い壁でできており、サルバドールの旧市街のような風格がある。
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 会館入り口で一行を歓迎してくれた柳沢嘉司さん(よしつぐ、85歳)は、この町の生き証人だ。父親が一九一八年に博多丸で渡伯し、本人も二四年に桂植民地に生まれ、二十キロ川下にあるイグアッペ市に移転し、郡会議員を二期務めた。
 正午過ぎから歓迎昼食会となり、同地の日伯文化協会のアラキ・ジョルジ会長(二世)は「よくいらっしゃいました」と歓待し、長友団長は「最初の桂植民地はさぞや苦労されたことでしょう」と語った。同観光局長は「ブラジル人として日本移民と日系人の貢献に感謝したい。日本文化を子々孫々に継承してほしい」との期待を述べた。
 突然、一行の小副川(ほそえがわ)絹枝さん(二世)がアラキ会長に近寄り、「私はここで出生登録されました。お祖父さんはイグアッペ入植の第一陣でした」と明らかにし、会場からはどよめきがあがり、拍手が送られた。
 現在はサンパウロ市在住の小副川さん。「私が生まれたのは三二年の護憲革命の真っ最中。父に聞きましたが、母が二階で私を生んだ時、下の階にはリオ・グランデ・ド・スルの兵隊で一杯。父はしかたなくカフェを出したりと大変だったそうです」と歴史を感じさせるエピソードを披露。「この町に来たのは五十年ぶりです」と懐かしそうにふるさと巡りの醍醐味を語った。
 地元農業シンジカットの役員をする野村勝さん(75、二世)によれば、桂植民地はかつてピンガの生産で有名だった。「みんな町に出てきてしまい、五~六年前までは大きな樽が転がっていたが、今じゃ朽ちてしまった」。
 かつてこの地はジュキアまで鉄道できて、そこから車に乗り換えるか、船で来るしかなかった。主要幹線BR116が開通したのは六二年。野村さんは「車が通るようになって栄え始めた」と振りかえる。
 戦前の米作に続き、六七年には約三百家族が入植するなど、戦後もこの周辺はバナナ景気でにぎわった。 日系農家の全盛期は一九七〇年から八五年頃で、海抜三メートルの同地ではバナナ栽培が主体で、多い時には六百万本もあった。
 「あの頃、平地は見渡す限りバナナだった。ところが、七九年に政府が堰を作ったおかげで洪水が発生し、バナナが全滅。堰を下げたがもう遅かった。八〇年、八一年、八三年に続けざまに大水が出て、みんな他へ移ってしまった。一回ならまだしも、三回だとやっていけないって」と苦い歴史を説明。そのたびにシンジカットを代表して州と交渉にあたったという。
 テーブルには同地名物の酢で締めたマンジューバの刺身などの手料理がずらりと並ぶ。朝七時から十人がかりで食事を用意した婦人部の一人は、「みんなに美味しいって言ってもらえてよかった」と胸をなで下ろした。新年会、敬老会など婦人部はいつも大活躍だ。
 同文協の会員は八十五家族。独特な行事としては十数年間続くというペスカ大会があり、最も大きな魚を釣り上げた人にはトロフィーも渡されるという。
 最後に恒例の「ふるさと」を全員で合唱し、一行は会館を後にした。
(つづく、深沢正雪記者)

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