県連ふるさと巡り=リベイラ沿岸とサンタカタリーナの旅=第4回=コチア青年貞光さん活躍=アントゥーリョ新種作る

ニッケイ新聞 2008年5月13日付け

 四月二十日、ふるさと巡り二日目の午後三時半、イグアッペ会館を出発した一行は、アントゥーリョ栽培の第一人者、貞光邦夫さん(65、徳島県出身)の農場を視察した。
 「三十五年間、これ一筋です」。貞光さんは出荷される直前のアントゥーリョを指さし、胸を張った。コチア青年第二次十三期として一九六一年に来伯し、六五年からイグアッペで花作りを始めた。
 三年ほど前に自分で交配して「緑と赤」「緑と白」など色の混ざった花を咲かせるアントゥーリョ種「サダミツ」を作って成長点培養で増やし、市場に出して好評をえている。
 「花が大きいのが特徴」で、五ヘクタールに十五万本も栽培しており、週に五百ダースをセアザに出荷している。一級品で一ダース十八レアル、小さいので三レアルからあるという。
 参加者の一人、自身も蘭栽培をしている飯田正子さん(74、二世)は「とてもきれい。立派なものを作っている。三十五年間の苦労が伺える」と感心しきりの様子だった。
 ふるさと巡り二十九回中二十六回も同行している最多参加者の和田一男さん(83、二世)は、今回の沿岸部訪問を振り返り、「第六回の時にジュキア線巡りをしたが、あの時はまだ未舗装路が多かった。今回はほとんどがアスファルトになっていて、発展していると感じた」としみじみ語った。
 一行はすぐに次の目的地に向かって出発し、車中一泊した。
   ◎     ◎
 翌二十一日午前五時ごろ、バスはサンタカタリーナ州中央部のドイツ移民が始めた町フライブルゴに到着した。濃い朝霧がかかっており、昨日までの蒸し暑いぐらいの亜熱帯気候から、肌寒い温帯に一気に移動したようだ。
 町の名前は、初入植したドイツ移民のフライ家にちなんでいる。はじめは林業に従事していたが木がなくなり、いろいろな果樹を試した結果、リンゴが最も適していることが分かり、現在のように広範に栽培されるようになったという。現在の栽培数は千百万本。
 一行がこれから訪ねるサンタカタリーナ州の中央部は、一九一二年に起きたゲーラ・ド・コンテスタード(異議者の乱)で有名な一帯だ。
 当時、連邦政府と、サンパウロ州から南大河州までの鉄道敷設の契約を結んだ米国のブラジル・レールウエイ社は、開発の見返りに鉄道沿線三十キロ幅の土地の権利をもらい、商品価値の高い木材の伐採をした後に、外国人移民にその土地を売ろうとした。
 そのやり方に反抗した現地のカボクロが、カリスマ巡礼僧ジョゼ・マリアを中心に抵抗勢力となって内戦を繰り広げた。
 パラナ州南部からサンタカタリーナ州中央部が主戦場となり、四年間に政府軍七千人と雇用民兵千人のうち千人近くが死傷か行方不明になり、反乱軍一万人のうち半分以上が死傷した。一八九六年にバイーア州の奥地で起きたカヌードスの乱の南部版ともいわれる大規模な内戦を繰り広げた。
 結局、鉄道工事は完成しなかったが、混乱がおさまったあとに拓殖事業は進められ、この地域一帯には外国人入植者が多く入った。
 現在では、その古戦場ともいえるコンテスタード地方の中の、特徴ある七市が観光ルート「ロッタ・ダ・アミザーデ(友情街道)」を作り、歴史や移民の持ち込んだ文化、農産物などを売り物にして共同で観光客誘致を図っている。
(つづく、深沢正雪記者)

県連ふるさと巡り=リベイラ沿岸とサンタカタリーナの旅=第1回=レジストロから旅開始=史料館は建物が展示品

県連ふるさと巡り=リベイラ沿岸とサンタカタリーナの旅=第2回=レジストロ=みんなで炭鉱節を踊る=「ふる里みたいな雰囲気」

県連ふるさと巡り=リベイラ沿岸とサンタカタリーナの旅=第3回=イグアッペ=「50年ぶりに故郷に来た」=日本移民は市発展に大貢献