連載〈7〉デカセギ夫の苦悩=孤独と戦いながら送金

ニッケイ新聞 2008年12月16日付け

 日本で行方をくらますデカセギの気持ちはどのようなものか――。
 記者の質問に、日系二世の田中ヨシカズさん(60、サンパウロ州ジュンジアイ市)は、「日本で仕事がしたことがあれば、誰だって分かるよ」と小さく答えた。
 田中さんが妻ルシアさんと当時二歳だった娘を残し、単身デカセギに行ったのは九二年。静岡県湖西市の自動車製造工場で働き、八時間の通常勤務に加えて残業を毎日こなしたという。休日、磐田市内の工場にヘルプ要員として出張することもよくあった。
 工場では、ベルトコンベアから流れてくるエンジンを取り付ける日々。日本人に差別を受けてつらい思いをしたこともある。「仕事は重労働だった。でも家族のためにがんばるしかなかった」。
 少しと謙遜するが、家族への送金は毎月欠かしたことはなかった。千円のテレフォンカードを何枚も買い、土曜日に国際電話するのが一番の楽しみだった。
 既婚のデカセギ男性が、孤独や重労働に耐えられず、新しい女性といっしょになるのを何度も見たことがある。「若い彼らの気持ちは十分理解できた。でもぼくは年配だったし、家族のことがいつも一番にあったから」。
 九四年に帰国し、装飾店を始めた。以来、忙しい日々を送っている。「午前十時から午後十時ごろまで店にいるよ。家に帰る暇もないくらい」と笑う。
 「日本にいる間、妻はよく娘の面倒を見てくれた」と感謝する田中さん。「僕たち夫婦には恥ずかしいことはない」と言い、写真撮影に応じた。「デカセギに行くなら強い意志が必要。それにしっかりとした目的を持つことが大事だよ」。
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 「日本で孤独な生活を続けていると、ブラジルの家族や友人が、自分ではなく、金だけをあてにしているように思えてくる」。デカセギ支援サイト「ポルタル・デカセギ」の管理人、木畑アキオさん(46、三世)は、単身デカセギ時代で感じた心境をこう語る。
 パラナ州マリンガ市生まれ。中学卒業と同時に州都クリチーバ市の高校に通い結婚した。九〇年、木畑さんは妻と幼子二人を残して日本に行った。長野県内の弁当屋や電気部品工場などで働き、残業もこなした。「仕事はきつくなかった。でも毎日が同じことの繰り返しだった」。
 半年間かけて航空運賃代や派遣会社への経費を払った後、送金を始めた。金額は毎月五百ドルから千ドル。「最初は家族のために何か偉大なことをしているように感じた」。でも、誰からの支援もなく、一人の生活を続けるたびに、「気持ちがネガティブになった。何も考えたくなくなるようになった」。送金を止めたいと思ったが、がんばって送り続けた。
 「ブラジルでは日系人はインテリとして見られ、体よりも頭を使う仕事をしている。それなのにデカセギとして日本に行けば、頭が空っぽになるだけだ」。
 日本での生活はきつく、困難で危険。「それなのにブラジルにいる家族からは『もっとお金が欲しい』と言われる。きっとデカセギの苦労なんて想像もつかないのでしょうね」。
 九四年に帰国したが、幼い次男から〃おじさん〃と呼ばれてショックを受けた。「家族から長く離れれば、お金よりも大切なものを失ってしまう」。
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 デカセギの中には、ブラジルにいる妻が自分の仕送りをつかって愛人と一緒になったことを知り、音信を絶つ人もいるという。
 日本の事情を知らない留守家族は、次第に送金が当たり前になってしまうのかもしれない。そうした家族の期待と要求が、単身のデカセギを追い詰める。ましてや現在、アメリカ発の世界同時不況のあおりを受け、多くのデカセギが失職。送金は簡単ではない。
 日本で行方をくらましたデカセギだけが一方的に悪いとは言えない。(つづく、池田泰久記者)

写真=田中さん夫妻。CIATE(国外就労者情報援護センター)事務所にて