連載〈1〉=戦後移住開始前の52年=「連合艦隊がサントスに」

ニッケイ新聞 2009年1月7日付け

 「もう二度と日本には帰りたくないと思ったね」。根っからの勝ち組だった父親の薫陶を受けて育った池田収一さん(86、福岡県福岡市出身)は戦勝を信じて疑わず、父親の号令のもと、戦後移住が始まる前年一九五二年、オランダ船ルイス号で一家九人帰国した。しかし、二年後、神戸港を発つ時には、冒頭の感慨を覚え、以来一度も祖国の土を踏んでいない。五十六年前に一体、日本で何があったのか。今だから振り返ることが出来る、当時の思いを聞いてみた。(深沢正雪記者)

 「殺されても、日本が負けたなんていえない気持ちでしたよ、あの頃は」。池田さんは三二年に十歳で渡伯、最初はノロエステ線リンス駅のウニオン植民地に入植し、四二年にサントアンドレーに移り、四六年から仕立屋を営んでいた。
 〃戦勝国〃日本に永住帰国する一家を見送るために、柔道場で二百人ぐらいが集まって送別会を催してくれた。当時、羨望の的であった。
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 父親・前田枡五郎さんの言いつけで一反の白地の布を買って日章旗を作り、サントスに〃お迎え〃が到着するのを心待ちにしていた。
 「サントスに連合艦隊が入港してくるって噂があったんです。山路中将が司令官になってってね」。
 父親は生粋の海軍軍人で、第一次大戦では独領の青島攻撃に参加。山路一善中将はその攻略戦で偵察爆撃に多大な功績を残し、「海軍航空の生みの親」とも呼ばれ、第三特務艦隊司令官まで務めた。父親の期待はいやがおうでも高まっていたに違いない。
 戦時中に、父親は外国語禁止令を無視して堂々と日本語をしゃべり、留置場に五時間入れられたこともあった。海軍魂は半端ではなかったようだ。
 当時、サントスに比較的近いサントアンドレーは、汎ソロカバナなどから勝ち組家族が出てきて、日本から〃迎え〃が来るのを待っているのが見られたという。
 また父親は、福岡出身の有名政治家、中野正剛のいとこにあたる。「日本でいざとなったらそれと頼ろうという算段だった」と振り返る。
 戦前移民の大半は、錦衣帰国を前提に渡伯したデカセギだった。敗戦情報は耳に入ってきても、感情的に納得できるものではなかった。
 「日本が負けた」と認めることは、帰るべき故郷がなくなることを意味し、感情的に飲み込める話ではなかった。それにポ語もまったく分からず、戦前教育で育った世代にとって、日本が負けることは「ありえない」との思いが強かった。
 池田さんは「日本からくる手紙はアメリカのユダヤ人が検閲していて本当のことが書いていない、そんな噂があった頃です」と思いだす。昭和新聞という勝ち組新聞も市中に出回っていた。
 一九五二年三月、親戚などの十人近くが波止場に立って手を振っている光景を昨日のことのように覚えている。池田さん家族を乗せたオランダ船ルイス号はサントス港を夕方出港した。「ほかに勝ち組家族が七家族ぐらいのっていた」と池田さんは記憶する。永住帰国のつもりだった。まだ四歳だった息子に日本の教育を受けさせたいと考えていた。(つづく)

写真=特異な経験を持つ池田さん(08年12月撮影)