松原植民地=56年目の追憶=連載〈1〉=今も残る初期移民 那須夫婦=昨日のように思い出す大霜

ニッケイ新聞 2009年1月16日付け

 マット・グロッソ・ド・スル州(南麻州)ドウラードス市から約七十五キロ、サンパウロ市から西南方向に約千キロ、パラグアイ国境まで百二十キロという場所にある松原植民地。今年は同地へ移住が始まって五十六年。戦後移民再開に貢献した故・松原安太郎(和歌山県出身)の名前を冠した移住地には、現在も日系人五家族が住居を構えている。和歌山県人を中心に六十九家族が移住したが、現在では初期入植者は二家族(三人)を残すのみになった。二〇〇八年六月に現地を訪れた折に現状を聞き、植民地の歴史、現状をまとめてみた。(坂上貴信記者)

 「この場所は連邦政府の土地だったから等高線にそって入植する場所が区切られていた。僕たちのほかに北伯難民が多くいたよ。僕らの場所は、テルセイラ・リンニャ(第三番線)と呼ばれていた」と述懐するのは、五三年の入植当時十一歳だった那須勝さん(66、和歌山)。
 当時九歳だった千草さん(64、和歌山)と後に結婚し、今も同じ場所に住み続けている。
 「僕たちの土地へ入る道は全くなくて、ここの道路は入植者自身が拓いたんだよ」としみじみ思い起こす。
 当時、ドウラードス市からの道は半分が原始林だった。測量隊が通った獣道のようなところを通って入り、カミニョンを通すための道をまず作った。「だから入植当時、植民地の入り口から両端は日本人の家ばかりが並んでいた」。
 植民地造成には苦労が付き物だった。
 十一歳でまだ畑仕事ができなかった勝さんをはじめ、幼い子供たちは水汲みが主な仕事だったが、相当な重労働だった。井戸を深く掘っても水が出ず、炊事などのために約五キロ離れた川へ汲みに行かなければならなかったからだ。
 そして天災…。最初の大被害は六三年の大霜だった。「あの日は満月の夜でとても寒かったからよく覚えているよ」と振りかえる。
 「近くにあった日本人会館に用事があって、友だちと一緒に満月の月明かりを頼りに自転車に乗って行く途中、『明日は霜かもしれないって』と話をしていたら、とんでもない大霜になった」と昨日のことのように思い出す。
 六三年八月八日付けパウリスタ新聞には「サンパウロ、パラナに十年ぶりの大降霜」との見出しで霜の被害状況を伝えている。その時、パラナ州マリンガ市では零下七度を記録した。記事中には「マット・グロッソ州のドウラードス以南のカフェも五割程度やられているという」との状況が伝えられている。
 さらに七五年、八五年にもサンパウロ州、パラナ州などを中心に大霜が確認され、ドウラードス地域でも被害が出た。
 勝さんは「七五年に大霜が起こったし、冬に雨が降ったり、セッカ(乾燥)したりして、採算が合わなくなってカフェは諦めた。それから私たちも農作物の中心はトウモロコシに変ったんだ」と経緯を話した。繰り返す天災に懲りて、植民地を後にした人も少なくないという。
 苦労を語るに人後に落ちない。だが、人生は間違っていなかったとの確信もある。「今まで辛い思いをしているけれど、移住してよかった」と笑顔で締めくくった。
(つづく)

写真=初期入植者として、今も松原植民地に残る那須夫婦